2018年10月                               

 

課題本『アウシュヴィッツの図書係』  

 

アントニオ・G・イトゥルベ/著 小原京子/訳 集英社   

 

 読書会を終えて  

 

                                               講師 吉川五百枝

 

 

もう勘弁してほしい。今日まで,アウシュビッツという言葉をどれだけ目にしてきたことか。映画もどれだけ見たことか。何が起きたか行われたか,映像で活字で刻みつけている。目を背けてはならないと,自分に言い聞かせてきた。収容所の様子,強制労働と病気,衰弱,ガス室,焼却炉。恐怖,猜疑心,さまざまな方法で伝えられた。

 

しかし,あの現実を自分の頭の中でなぞるのには,体力気力が要る。今回の課題本もそうだ。何十年も積み重ねてきた戦争への記憶や思考が,これ以上,また追体験をするのかと悲鳴を上げている。

 

194438日の夜,BⅡb家族収容所にいた3792人の収容者がガス室に送られ,アウシュビッツ=ビルケナウの第3焼却炉で焼かれた。〉たったこの2行で,私の心の中でバリバリと音がする。

 

 ヒトラーのメシア思想的計画,人類を遺伝学的に浄化するというとてつもない偏見で,ユダヤ人の強制収容所は始まった。アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所もその一つだ。 人を殺すだけでなく,思想や良心を殺す場所でもあった。 

 

1939年,ナチスドイツのポーランド侵攻が始まった。当時9歳だった中心人物チェコプラハに暮らす9歳のエディタ・アドレロヴァ(ディタ)にとっても故無き苦しみの始まりだった。ユダヤ人てあるという理由で,14歳のディタは父母と共にアウシュビッツに収容されている。

 

ナチスドイツの歴史的事実を基盤とし,小説という創作手法で各人物をクローズアップしていく。実際には見たことのないアウシュビッツ強制収容所の叫びや呻きや怒声やひそひそ声やホイッスルや銃声が聞こえて来る。ディタは生き延びて連合国軍に解放されたけれど,そこには,どれほどの苦しみが満ちていたことか。

 

過去を振り返る立場にいる今の私たちは,おおよその全体像が掴めるし,戦争の成り行きも解る。しかし,当時,収容所内にいた人たちは,全く何も解らなかっただろう。だから,いくら作品を読んでも,今では当時の人たちの近くに寄っていくことも難しい。そうであってもなお,全編彼女と共に息が詰まる。

 

つい最近,偶然に,グレゴリーペックがナチスのメンゲレ親衛隊大尉を演じる映画を見た。文字とは違って,手足が動き話をするメンゲレを見ると,その実在性に圧倒される。戦争が終わり,メンゲレは戦犯として追われながら,ヒトラーの複製を作り第4帝国の復活をはかる話だった。やはり,クラシックの音楽が流れ,「死の天使」と呼ばれて青い目の研究をしていた。原作の小説があり映画化されたものだが,今回のテキストの持つ恐怖が,生々しく起き上がって大きくなった。

 

ナチスに傾倒していた人たちは,罪を犯したとは思っていないのだろう。殺したのは,彼らの思う人間(ゲルマンドイツ民族の血につながる人)ではなく,浄化の対象となる“モノ”だと思っていたし,浄化を妨げる人だったのだから。ヒトラーの思想は,ここが恐ろしい。現在でも,我が民族のみが生存に値すると思う人たちが居る。ヒトラーは死んではいない。自分以外を排除する者の背後に立って,同志を煽っている。

 

ナチス政権下で,ナチスの思想に無批判に従い,邪魔だと教えられた人間を殺すことが出来る社会になった。その社会的な体質を構成させたのは,多様な思考を停止させるナチスの「教育」ではなかったか。

 

〈独裁者,暴君,抑圧者たちは本を徹底して迫害するのだ。本はとても危険だ。ものを考えることを促すからだ。〉本は,自分や世界に目を向けさせ,考えさせる。本は,広い意味での教育者だ。

 

ヒトラーは,本を焼かせた。

 

だが,強制収容所BⅡb区画 31号棟の子ども専用バラックには図書館があった。ナチスから禁止されている秘密の図書館は,たった8冊を所蔵する図書館だったが,本がどんなに人間にとって必要かを語っている。

 

〈本を開けることは汽車に乗ってバケーションに出かけるようなもの。〉 

 

〈本は鉄条網も恐怖もない暮らしの象徴,本は決して記憶を損なわない〉

 

〈本の中のほんの数ページを,自分だけの世界にすっかり変えてしまえるのだ。〉

 

その図書館の図書係をまかされたディタは,監視兵の目をかいくぐって,本を必要とする人の所に届け続けた。たった8冊の本であろうとも,本を運ぶ秘密のポケットは。唯一自分たちに残されている想像する力で充たされていたのだろう。ディタは思う〈図書館は今や薬箱なのだ。〉と。

 

「戦争なのよ,エディタ。戦争なの」母は,危険を冒す娘に何度も言う。

 

〈何年も死の恐怖にさらされ,ろくに眠れず,酷い食事をあてがわれ,それがいつ終わるか解らない。何の為かも解らない。ひもじさと無為な時間。〉

 

〈運命だか,神だか,悪魔だか知らないけれど,この6年間,戦争の間,苦しみを与え続けて,何の安らぎも与えてくれなかった神。〉神を責め,すがり,懇願する。祈りを知る人々のこの叫びは,何度も他の作品で読んだ。『沈黙』(遠藤周作)も思い出す。

 

 収容された人々は,自分たちの恐怖や苦しみを嫉妬に変えて互いを攻撃しあう。ナチスに利用されるカポーも収容者と同じ身の上だが,疑似上層階級として染められ,支配の術中にはめられてしまう。他の作品においてもカポーに出会うが,そのたびに,人間の弱さに直面する。

 

ディタが憧れたアルフレート・ヒルシュ。パレスチナ回帰のシオニズム神秘思想の持ち主で家族収容所31棟の責任者である。子ども専用バラックを確保し,その中に学校と図書館を作った。彼と本によってディタは命の灯火を灯し続けることができたのだ。

 

8冊の内の1冊『兵士シュヴェイク』(ヤロスラフ・ハシュク作)も,ディタに笑いを贈り続けた。笑いは抵抗の武器なのだ。硬直した脳をほぐし,一方的な価値観を崩す。 

 

ディタは,ディタ・クラウスという1929年にプラハで生まれた実在の人物がモデルである。ディタも,そして『アンネの日記』のアンネと姉のマルゴットも,強制収容所も,みんな創作上の虚構であればどんなに良かったか。ただ人間の極限状況を想像するための絵空事であったら,おそろしいだけで,もっと平静に読めただろうに。

 

 

 

 

 

 『アウシュヴィッツの図書係』 三行感想  

 

 

 

◆常に死が隣にある極限の絶滅的環境のホロコーストを生き抜いたこの本の主人公ディタさんが存命であることを知った時は感銘。収容所で過ごした数年間,若い感性のあるディタにとって現実から逃れることの出来る本やヒルシュが生き抜く希望になったことか。

 

解放されるまでの彼女の数年間が,その後の人生にどんな意味を持ったのだろうかと考える。 【YA】

 

 

 

◆自由とは心の問題。どんな所にいても,生きる意欲・読書の意欲を決して失わない。なぜなら「本を開けることは 汽車に乗って バケーションに出かけるようなもの」だったのだ。

 

この壮絶な時代に鍛えあげられた固い絆を分かつことができたのは死だけだった。「本の魔法」「本の力」「読書のすばらしさ」を再認させてくれた本です。 【M子】

 

 

 

◆恐怖,汚れ,虐げ,残虐,目を覆いたくなるほどの拷問。悪臭,病気,飢え。再々読むのをやめて本を閉じてしまった。でもディタは最後に幸せになって安心している。希望と愛情が薬となっている。 【TK】

 

 

 

◆実在する人物を主人公にしたフィクション。感想を文章にまとめて書くことがとてもつらく

 

難しい一冊でした。戦争の悲惨さ,その中で本を守っての健気で勇気のあるユダヤの少女の生きざまは“本を通して,心が自由になれる”“本の世界を通して,空想を広げられる喜び”等,それらを勇敢であきらめない心に変えて,生きていく力にしていたんだと思った。しかし,戦争は本当に恐ろしい。二度と繰り返してはならない。 【R子】

 

 

 

◆アウシュヴィッツ・ビルケナウ絶滅収容所にあった秘密の図書館の8冊の本の物語。

 

戦争の悲惨さ,残酷さで読むのも時間がかかり,重い本だった。ディタが生きのびて,オータと一生,生活できたことが一番うれしかった。 【KT】

 

 

 

◆何千・何万人もの人々が ガス室で殺されていく,自分の命もどうなるか分からない過酷な状況の中でも,強い意志や信念を持って生きている人々に感動した。 【T】

 

 

 

◆「ヒットラーの何が問題だったのか」という問いかけに,大いに考える機会を与えられた読書会だった。アウシュヴィッツは過去の歴史の中だけのことではなく,これからも起こらないとは言えない危機感を感じた。現在排外主義が再来しつつあるという新聞記事も合わせて読み合って,今生きるものとして無関心にならないよう,注視していきたい。 【Y】

 

 

 

あの(・・)アウシュヴィッツに図書館(?)があったのです。それだけでホッとします。このタイトルを灯に本を読みすすめました。体力・気力すべてが必要です。八冊の本の価値は「魂の拠り所」だったのでしょう!図書係になった少女の生き様に感動です。 【K子】

 

 

 

 『アウシュヴィッツの図書係』 感想 

 

 

◆◆◆ 【C】                               

 

 前回の課題本はフィクションであったが,今回は実際の人物たちがいる。

 

 しかし読んでいて本当だろうかと最初は疑ってしまった。

 

 何故ならば,舞台はあの<生き延びることだけを目指せ>と古参の囚人が新参者に伝える,「アウシュヴィッツ=ビルケナウ」なのだ。あの強制収容所の中に,学校があったなんて。学校といっても,私たちが通常イメージするものとはだいぶ違ってはいるが。

 

<誰かが何かを伝えようとし,子どもたちがそれを聞こうと周りに集まれば,そこが学校に

 

なる>そんな思いを胸に,ナチスの思惑(国際赤十字から収容所の実態を隠すためのカモフラージュ)を逆手にとって,家族収容所の中にフレディ・ヒルシュは学校を作った。自分自身が生き延びることさえ大変な状況下で,更に弱い子どもたちのことを思い,守り,生きる力を失わせないようにするということがどんなに困難なことであったかは,私の想像を絶する。

 

<アウシュヴィッツから生きて出られるかどうかもわからない子どもたちに勉強をさせて何

 

になる?目と鼻の先で死体が焼かれ,黒い煙を吐き出している煙突のことを話す代わりに,ホッキョクグマの話をしたり,掛け算の九九を教えたりすることに何の意味があるのか?>一切れのパン,一杯のスープが命の長さを左右する状況なら,当然出てくる意見だろう。<そう反対する先生たちを,ヒルシュは熱意とその権限で説き伏せた。三十一号棟は子どもたちのオアシスになるのだと>どんな風に語り,説き伏せたのだろうか。生きている間,子どもたちが数分でも現実を忘れ,知ること,生きることの喜びを感じられること。それがすべてだと。そして子どもたちに教えることで,大人たちも折れそうな心をギリギリで支えていたのではないだろうか。

 

さらにもっと驚くのは,図書館があったこと。8冊の本と,<生きた本>(物語を語る語り部

 

たちのこと)6冊がすべての図書館。その管理,運営を任されたのが,主人公チェコ出身のユダヤ人少女,14才のディダ。彼女は本が人々に生きる力を与えることをよく理解している,本を愛する者だ。だから命がけの仕事をこなしていく。強制収容所の実態は,読めば読むほど悲惨で,怒りと哀しみで気分が悪くなるが,そこを逞しく生き抜いたディダに,救われたような気分にもなる。

 

 貴重な本の中でも,『兵士シュヴェイク』というB級大衆小説のような本が,主人公ディダの気持ちを救ってくれていたことが,興味深かった。一晩で多くの仲間がガス室に送られ,焼却炉で焼かれ,灰となって降ってきた翌日,心が固まってしまった子どもたちと大人に笑いをもたらしたのも,この本だった。

 

強制収容所で生き抜くために,笑い,ユーモアがとても必要だったと,『夜と霧』のV.E.フランクルも述べている。一人の人格ある者として扱われない収容所の中で,人間性を保つ,精神を保つことがどんなに困難なことかを語っている。

 

 収容所の中で,子どもたちの白雪姫の上演(があることにも驚く)でも,<狭い場所に動物のように詰め込まれ,烙印を押されると,人は自分が人間であることを忘れてしまう。が,笑ったり泣いたりすると,自分たちはまだ人間だと思い出す>。心を動かすもの。それは芸術だったり,文学だったり。読んでいると,やっぱり人は人として生きるために芸術や文学を生み出したのだと,しみじみとわかる。どんな環境にいても,文学は人を人ならしめるのだと。知りたいという欲求も,生理的欲求のひとつなのだと。

 

 そして知ることは,他者への想像力を育む。互いが違う考えを持つ人であることを知り,どうやって共に生きていけるか考えるはずだ。しかし今の社会は想像力が欠如し,他人の痛みを感じない。実は自分自身も傷を負い,血を流していることに気がついているのだろうか。今,ドイツも右に傾いている。

 

 私がナチスの強制収容所について初めて知ったのは小学5年生の時で,『アンネの日記』からだった。過去の,しかも遠い外国の恐ろしい戦争の残酷さを,私は本で知った。<本はとても危険だ。ものを考えることを促す>と支配者に思わせる,本の力。ディダが生き抜いてきた強制収容所の残酷さ,悲惨さがひどければ,ひどいほど,本の力が増してみえる。本が人に与える,生きる力が輝いてみえた。

 

 

 

◆◆◆ 【YA】

 

アウシュヴィッツは余りにも非人道的で重い。極限の環境下で13歳で収容所に送られ,数年間をそのホロコーストで生き抜いたこの本の主人公ディタさんが現在存命であることにとても感銘している。この物語は収容所に囚人が所持していた10冊に満たない本を受けて秘密の図書館があった。家族棟はアウシュヴィッツでは特異な存在だった。中でも青年リーダーヒルシュの尽力で学校を作り,歌うことや運動は許された。しかし本の所持は固く禁止された。何故本は禁止されたのか。ナチスが最も恐れたのは本から学ぶ事だったに違いない。感性を豊かにし,夢や希望を育み人生を見直すきっかけとなり,生き方の指針となる事も多い。私は小学生で読んだ本で外国に興味を持った。この10冊に満たない本をディタが秘密裏に管理する事になり物語はすすむ。

 

ヒトラーもかつては絵を愛する青年だった。ウィーンの美大受験の失敗からドイツミュンヘンに移ったのがきっかけとなり,極右の活動に参加。反共主義とドイツ国家再建の使命感を培う。共産党の指導者の多くがユダヤ人であり,経済や文化が優位なユダヤ人に対する伝統的な反感が生まれる。又ゲルマン民族の純血主義を掲げユダヤ民族の壊滅を煽る戦術をとるようになる。国や大きな組織に洗脳され,疑問も抱かず判断力も堕ちこうして最初のダッハウ収容所が1933年に作られ,5年後には痛ましい「水晶の夜事件」が起こり,これがホロコーストの口火となる。ディタの側でも筆舌に尽くしがたいユダヤ人の虐殺が行われていたが,本の読み聞かせや先生たちの講義があり本に一時でも癒された子供達がいたに違いない。ヒルシュが謎の死を遂げ支えを失うが若いディタは本を守る使命を全うする為にも生き抜かねばと思ったに違いない。

 

最終的にディタはアンネが収容されていたベルゲンベルゼン収容所に移され,そこで解放された。沢山の資料の虐殺の写真から思わず「人間の尊厳とは」と問わずにいられなくなる。

 

民族の壊滅を図るナチスの非人道的暴挙は決して過去の歴史にしてはならない。

 

                        「水晶の夜事件」

 

1938119日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動迫害であり,ユダヤ人の居住する住宅地域,シナゴーグ等が次々と襲撃.放火された。

 

暴動の主役となったのは突撃隊のメンバー。この事件がホロコーストの口火となった。

 

 

 

◆◆◆ 【MM】

 

 先月の課題本『すべての見えない光』と今月の課題本は戦争というキーワードでつながっており,

 

来月の課題本『プリズン・ブック・クラブ』と今月の本は読書というキーワードでつながってい

 

る。この数か月とても興味深い本との出会いが続く。

 

 過酷な環境のなかで行われる読書活動。それがどれだけ勇気を与えたか。生きる希望を与えたか。

 

本を読むことでその一時でも残酷な現実から目をそらすことができる。読書は読む人をどんな世界

 

へもつれて行ってくれる。

 

 父や指導者,尊敬する大人が次々と主人公ディタの前から消える。道しるべをなくしてもなお前を向いて進む彼女は本当に強い女性だ。しかしそんなディタでさえ生きたいという意思が風前の灯となる終戦直前。「なんとか間に合ってよかった!」イギリス兵が入ってきて終戦を告げたところで心からそう思った。

 

 本文にもあったがアンネ姉妹はあと一歩のところで終戦を見ることはなかった・・・。子供も大人もユダヤ人ということだけでこんな仕打ちを受けるなんて。二度と同じことがあってはならないという思いを強くした。

 

 今回の課題本がきっかけで,アウシュヴィッツ収容所の写真記録も見ることができ,その後杉原千畝の自伝も読んだ。次は『ゲッベルスと私』を読んでみたい。事実に基づいたものは強く訴えるものがある。『ゲッベルスと私』は映画にもなっているので映像でもぜひ観てみたい。

 

 今月は都合で参加者のみなさんのお話が聞けなくて残念でした。当日配られた資料からすでにとても興味深かったのでみなさんの感想を読むのが楽しみです。

 

 

◆◆◆ 【SM】

 

「ヒットラーの罪は何なのだろう?」という問いかけから始まった読書会だった。

 

第一次世界大戦で負けたドイツはイギリスやフランスから莫大な負債を負わされ,経済的に貧窮し精神的にも追い詰められていた。国民の不満は最高潮に達していた。そこへ現れたのがナチス党のヒットラーだった。彼は言う。「人間には『優れた人間』と『劣った人間』がいて,その違いは生まれた国や肌の色で決められる」と。また「優れているのは『ドイツ人』だけで,ポーランド人や他国民,ジプシー等は劣った人間で,さらに最低の人間が『ユダヤ人』だ!」と。このとんでもない純血思想にドイツ国民は陶酔してしまった。そして彼をナチス党の党首に祭り上げ狂喜乱舞した。彼も彼の参謀も巧みに国民を洗脳し扇動し民族浄化の思想の元,ユダヤ人を生きる地獄へ地獄へと追いやった。その最たる場所がアウシュヴィッツ強制絶滅収容所だった。劣悪すぎる住環境・食糧事情,蔓延する伝染病,苛酷懲罰,罪無き処刑等々,人の命だけでなく良心や尊厳をも切り崩し人間の闇の極限を見せつける。

 

本作品は「アウシュヴィッツに図書係?」と,昨年から気になっていた本だった。

 

あのアウシュヴィッツで,国際監視団のための見せかけの家族収容所があり,決してドイツ親衛隊には見せてはならない「8冊の本」と6人の先生方が語ってくれる「生きる本」があった。強制収容所で子供達は,最期の瞬間まで本や物語で考えたり想像したりしながら,生きることを守られ,生きる希望を抱きながら生活していたのを知り,私は想わず彼らに「それを幸せっていうのよ。」とつぶやいていた。一人一人最期まで幸せだったと思ってほしい。

 

主人公ディタはユダヤ人で14歳。憧れのフレディ・ヒルシュから“図書係”を命じられ我が命の危険を顧みず,服の下に本を隠し守り抜く。彼女にとって今ある本も過去に読んだ本も「生きる希望」であり「生きる道標」だった。父や母の身を案じ,友達を慮り,時には冗談を言い,解放直前までヴィヴィッドだった。日夜続く死の恐怖の中で,ディタの凄まじい考え方や行動に感動し引き込まれ,一度も本を閉じることなく一気に読むことができた。

 

読み終えた私は,しばし余韻に浸りながら鳥肌の中に居た。ルータ・セペティス著『灰色の地平線のかなたに』のリナみたいに「たおやかに生きぬく力」をもった娘がここにもいたんだと。またV.E.フランクル著『夜と霧』のように,苛酷非情な状況でもユーモアやパン一片の思いやりを失くさなければいいのだと。彼女らは「人としての尊厳」を見失わなかった。

 

吉川先生は,「生き残った人からは話を聞き,亡くなった人からは残された服,髪の毛,鞄,靴,眼鏡,金歯等が語ることを聞いていけるかどうかです。」とおっしゃる。私はどれだけ聴けているだろうか?まだまだ不安が残る。アウシュヴィッツは私に「戦争状態,極限状態の中で,なぜ生きる?どう生きる?」を考えさせてくれる場所だった。

 

 

 

もう一つ考えさせられた。「凡庸の悪」である。

 

関連本としてブルンヒルデ・ポムゼル著『ゲッペルスと私』を読んだ。彼女は106歳で今年1月27日に亡くなった。著作中は103歳。ゲッペルスの秘書だったが,自らを「人道的な観点からみれば有罪だ」しかし「忠誠の誓いに縛られており,命令に従って義務を果たすより他なかった。心の底では責任があるとは感じていない」と述べている。それは余りにも人の倫理からかけ離れており,責任回避ではないか。事後くらいは悪を自覚して後悔してよと叫びたい。でももしかして私にも「凡庸の悪」が棲んでいるのだろうか。