2018年11月                               

 

課題本『プリズン・ブック・クラブ』

 

アン・ウォームズリー/著  向井和美/訳  紀伊國屋書店  

 

 読書会を終えて 

 

                                               講師 吉川五百枝

 

 

 

〈 「あんたのようなきちんとした人が,なんでおれたちみたいなワルと一緒にいたいんだ?」 〉

 

筆者のアン・ウォームズリーが,初めてコリンジ・ベイ刑務所の読書会を訪れたときに参加している受刑者からかけられた言葉である。なぜ,刑務所での読書会に関心を持ったのかということは,初めからちょっとした謎だった。彼女のその理由は,やがて明かされる。アンは,かつてロンドン滞在中に強盗に襲われ,その後数ヶ月びくびくして暮らした経験があったのだ。その脅えを払拭したい思いもあって,誘われた刑務所の読書会に1年間参加したようだ。それに加えて,罪を犯した人々の読書会に,客観的な作家の視点を持ち込みたい思いもあった。 だから,参加者に日記を書くことを勧め,あとで読ませて貰ってもいる。〈 はたして,文学は受刑者の人生に何らかの変化をもたらすことができるのだろうか〉という疑問を持ち,克明な記録を作る狙いをもって彼らに接したはずである。

 

そのアンが,1年後自分の変化を認めた。〈 ニュース雑誌の記者として,個人的見解を挟まず事実だけを伝えることに慣れていた。読書会のメンバーがそれぞれ自分の考えを口にし,互いの意見を聞いて,ときには見方を変えていくのを目の当たりにした。いつのまにか,私自身もみずからの考えを突き詰めて,意見として表明できるようになった。そんな自分が嫌いではなかった〉と記す。

 

アンの「文学は人に変化をもたらすか」という疑問は,一般的によく聞かれるテーマだが,実は,私自身はアンのような疑問を持たない。

 

文学に触れると何らかの変化をおこすだろうが,何がどのように変化したかは本人にさえ解からないものなのではないかと思うからだ。しかも,この作品の記録は1年間のものだ。1年で,各個人の厳重な自己防衛のスクリーンを破り,深奥に潜りこめるだろうか。

 

だが,受刑者の彼らは疑問に答えるように雄弁に語ってくれる。文章だから口調は滑らかだ。読書会に参加している受刑者のベンは言う。

 

〈 どれが好きっていうのではなくて,本を1冊読む度に,自分の窓が開いていく感じ。どの物語にも,それぞれきびしい状況が描かれているから,それを読むと自分の人生が細かいところまではっきり見えてくる。そんなふうに,これまで読んだ本全部がいまの自分を作ってくれたし,人生の見方も教えてくれた。〉

 

また,こうも言う。〈この読書会がおもしろいのは,自分では気付きもしなかった点をほかのやつらが掘り起こしてくれるからさ〉

 

いくつかの読書会に参加している私にとっては,こんなに上手く読書会の楽しさを書き並べられると,嬉しくて何度もうなずいてしまう。自分が,いかにたのしんでいるかという話は,楽しみ方いろいろ,人生いろいろと,こちらもうきうきする。ただ,そこに有用性を問われると,私のうきうきは沈むのだ。「えっ!文学に出会うことがどんな役に立つかって?」と。

 

アンを刑務所での読書会に誘ったキャロルという女性は,読書会の有用性について,答えを持っている人物だろう。いくつも刑務所読書会を立ち上げようとしている。

 

キャロルは,〈みずからの善をたずさえて〉刑務所の読書会に参加し,〈彼らがその時間だけは別の人生を生きようとしているのなら敬意を表するべきだろう〉と考える。

 

 彼女は,キリスト教徒の家庭で育った。刑務所での読書会に資金援助を仰ぐことができるのも,キャロルが意識したキリスト教徒であることを鮮明にしている。彼女は〈主人公の立場に自分を置くことができ,登場人物の行いについて考えられる本〉を求めていることからみても,罪を犯した人の救済につながることを念頭においている。彼女の使う言葉には,その宗教観が滲み出でていたことだろう。 

 

〈登場人物の身になってみることで,他者に共感する気持が高まる〉というのは キャロルの願いであった。文学作品にであう喜びの大半は,確かに,多くの登場人物と知り合うことにある。そして,驚かされたり,回れ右をさせられたり,無知をしらされたりするのに忙しい。その冊数や時間が重なって,いずれの時か私の深い部分へ語りかけてくれる人物にであう。共感能力はもちろん欲しいけれど,読書のせいでその能力が高まるかどうか,私にはよく解らない。

 

作家の手による見事な記録であっても,自分の読んでいない本についての感想は,そのまま読んだような感じで受け取るわけにはいかない。これが読書会の記録で創り上げたこの作品の限界かもしれないので,今回は「読書会というもの」や,「本というもの」についての感慨を読み取ることしかできなかった。

 

文学の前では,どんな立場であるかを問われないと思う。刑務所の中に居ようと外に居ようと,ただ,本の中の人と語り,あなたならどう思うか,あなたならどうするかと尋ね合いながら,自分の姿を知っていくのではないかと思う。読書会の仲間は,そうした本との出会いを助けてくれる存在だ。その人だけが育ててきた言葉を持ち,自分とは違う空気に包まれていて,その語られる世界に,はっとする。自分の知っている世界に浸かっている限り,自分の匂いには気がつかない。

 

読書会があちこちにできるのは,キャロルならずとも良いことだなと思う。自分とは違うものにであって,自分の匂いに気付くのだ。そうすれば,ちょっとだけキョロキョロして,隣人に気付くような気がする。

 

この作品の詳細なブックリストは120冊。私たちのしているような読書会には,荷が重すぎるといえるだろう。そこで,例会ではこの作品を読んで,自分も読みたくなった本を12冊あげてもらった。

 

 最多の票数になったのは『サラエボのチェリスト』。第2位は『またの名をグレイス』。第3位は『6人の容疑者』と『ガラスの城の子どもたち』だった。これは,アンの表現に従った興味なので,現場に参加していればまた別の結果かも知れない。『サラエボのチェリスト』の作中に使われている“アルビノーニのアダージョ”をユーチューブで聞いた。

 

本の激流に巻き込まれた感のある今回の課題本だったが,私には本が役に立つかどうか解らなくても,私を生かして,仲間に出会わせて貰っている喜びがあるのだと,足の置き場を確認している。

 

 

 

 

 

 『プリズン・ブック・クラブ』 三行感想

 

 

 

◆刑務所内に図書館の存在はきくが,受刑者との読書会がカナダにあることを知った時は驚きであった。受刑者(犯した罪は異なる)との読書会とは一体どんな展開になっているのだろうか。何にせよ特殊な環境の中で生活を強いられる限界の中,本を読む行為の意味を考える。 【YA】

 

 

 

◆受刑者である彼らにとって唯一,現実から逃避できる場所,読書会。「刑務所」と「読書会」一見ちぐはぐに思えるこの二つだが,考えてみれば,だれよりも本を必要としているのは,人生ぎりぎりのところにいる人たちではないだろうか。『サラエボのチェリスト』を読みました。この物語は実話をもとにしている。人間の心を物語っていると思いました。 【M子】

 

 

 

◆日本には刑務所に図書館の文化がない。外国は民族や宗教,犯罪の種類が多い。その中でのドキュメンタリーである。本を読むことで更生がなされていることもよく分かる。 【TK】

 

 

 

◆刑務所内に読書会が存在していることにまず驚いた。私の罪人に対する偏見からだと思う。女性ボランティアの読書会に対する熱い思いはどこから生まれたんだろうと思う私でした。読書の力で受刑者の心を見つめるきっかけを作っていったキャロルさん達の情熱のすばらしさに感動!そして刑を終えた人が「生きている!」という喜びを感じられる生活になりますよう祈っています。 【R子】

 

 

 

◆カナダの刑務所の中の読書会にボランティアとして参加し受刑者との信頼関係を深め,お互いに変わってゆく姿に感動した。読書会を次々と立ち上げてゆく友人キャロルの「読書の楽しみの半分はひとりですること,つまり本を読むこと」「あとの半分はみんなで集まって話しあうこと。それによって内容を深く理解できるようになる。本が友だちになるの。」

 

この言葉は納得できた。 【KT】

 

 

 

◆刑務所の中で行われた読書会の話です。彼らの読み取りの深さには驚きました。自分の思いを出し,人の思いを聞く中で成長していく姿に,本は素晴らしいなと再認識しました。彼らにとって 読んだ本は心の支えになっているようです。 【T】

 

 

 

◆刑務所内で開かれる読書会とは,刑務所内一人で読むことも出来るが,皆と同じ本を読み,人それぞれに感じ方が違い,それを認めるということもありだと思うと,心も柔らかく,広くなり,それが更生の一助となるだろう。 【N2

 

 

 

◆刑務所で読書会をするという発想に驚かされた。受刑者が読書会を通して少なからず影響を受けていく事実を知って,改めて読書のすばらしさを感じた。又,すべての受刑者に読書会を立ち上げようとしているキャロルの情熱は人の役に立ちたいという思いだけからきているのだろうかと,話が大いに盛り上がった。 【Y】

 

 

 

 

 

 『プリズン・ブック・クラブ』 感想 

 

 

 

◆◆◆ 【C】  

 

ただ,もう,嬉しくなってしまった。

 

読書会のすごさを,こんな風に証明してくれて。

 

こんな風に読書会の成果を示すことができれば,もっと多くの場所で開催してくれるのだろうなあと思いつつ,でもその有効性を抜きにしても,

 

「そうなんだよ!読書会って,おもしろいんだよ!」と,伝えたくなる。

 

 

 

受刑者たちが読書会に参加することで変化していく様子は,本当にワクワクした。後半になるにつれ,彼らの本の読み方が深くなり,その感想がとても興味深くなっていく。まるでその読書会に参加しているような気分になり,かれらの言葉にはっとさせられる。受刑者たちが読んだ本は,私は読んでいない本ばかりだったが,私も読んだような気分になり,そしてその本をちゃんと読みたいと思った。そして著者のアン・ウォームズリーは途中から受刑者たちに日記帳を渡し,書くように勧める。読むことも重要なことだが,書くことも頭の中の考えをまとめることができる重要な手段だ。アンが後で読むことがわかっていて書くから,(つまり読者がいる)感情の垂れ流しのようなことは書けない。立ち止まって,冷静に自分を振り返ることができたのではないだろうか。

 

読書会の感想文も,これにやや似ている。

 

 

 

ボランティアとして刑務所読書会を主催するキャロル・フィンレイは,<読書の楽しみの半分は,ひとりですること,つまり本を読むことよ。あとの半分は,みんなで集まって話し合うこと>だという。その通りだ。

 

 私は読書会に参加する前,だんだんと何を読んでいいのか,わからなくなっていた。本は好きだったけれど,読んでも読んでも,満たされない。まるで読み捨てるような,乱暴な読み方で,読んでも何も心に残らない感じがしていた。しかし読書会に参加して,丁寧に読めるようになった。読む冊数は少なくても,とても心が満たされる。それはたぶん,本の奥に秘められた著者の想いに,丁寧に心を馳せることができるようになってきたからだと思う。一冊の本はまるで深くて広い森のような世界を秘めている。いろいろな人の感想を聞き,いろいろな読み方があるのを知る喜びは,一人では入り込めない森の中を皆と一緒に突き進み,思いがけない宝物を発見するような気分だ。この楽しさはちょっとやめられない。これは,訳者の向井和美氏が言うように<一冊の本をめぐって話し合う読書会のおもしろさを一度知ってしまったものは,もうそこからは抜け出せない>。

 

 

 

 そして読書会を続けるうちに,私は読書会が本好きの人が集まるただの趣味の活動とは思えなくなってきた。自分一人では決して選ぶことのない本を読み,私には知らないことがたくさんある,という単純のようでいて,究極のこの事実に,読書会で気付かされる。社会にはいろいろな人がいて,いろいろな考えを持つ人がいる。それを知れば知るほど,私は謙虚な気持ちになる。刑務所でも,受刑者たちの他人に対する共感力が高まると言っていた。

 

今,社会は排他主義,戦争へ向かおうとしているような気配がぷんぷんしていて,政治家が世の中を動かしているようにも見えるが,私はむしろ一般の人々の意識が世の中の雰囲気を作り,その見えない雰囲気が,政治家や世の中を動かしているように思えてならない。今こそ,読書会が必要なのではないかと思う。

 

 今回も前回の読書会,『アウシュヴィッツの図書係』から続いているような,課題本だった。どちらも,本の力を確信していて,それを証明している人の話だ。しかしどちらもその本たちを媒介する,チェコ出身のユダヤ人少女ディダやキャロルなど,勇気ある人がいてこその本の力だった。

 

 

 

◆◆◆ 【Y】

 

刑務所内に読書会があるというのをこの本ではじめて知り,しかもカナダには数か所もあるとのこととても驚いた。一体どんな方がどんな方法で指導されているのかと,興味深かった。

 

先ず読書会以前の事としてどのような環境で,又受刑者の人数とかを考えた。

 

受刑者の罪も軽い人もいれば非常に重い罪を背負っている人もいる。受刑者個人個人が本を読む行為ではなく,共通の本を読む事の行為が先ず大切な事なのかと思う。

 

本を読む行為が即啓蒙的なものに結びつくものではなく,内容を問わず本を手にとり最後まで読み通す事が喜びとなるに違いない。一人ずつの感想や捉え方が違うのが又自分以外の人の理解に繋がることになる。指導者キャロットの旨さもあるに違いないが本は誰をも惹きつけるものがある。受刑者にとっては外の世界とごく限られた狭い内の世界とを本は結びつけてくれるのかもしれない。読後の結果はどうであれ受刑者に限らず人にとって本を読むという行為は何かしらの思いを考えさせてくれると思う。本の魅力は人それぞれだが私にとって夜寝床で本を読むのは至福のひと時である。

 

 

 

 

◆◆◆ 【TK】 

 

日本の刑務所と海外の刑務所は明らかに違いがあり,日本が遅れている。罪を犯した人を更生することに目を向けている。

 

本を読むことで,各自の動機が明らかになっていく。気がつかなかったことを,他の人が掘り起こされていくことのは,読書会のよい所である。

 

著者が何を考え,どんな表現をしているのか考えるようになる。そして,小説の中の人物から,弱さを愛し恐れないこと,勇気と威厳を保ち,難しい中でも耐えること,内面を掘り下げて美しいものをみつけて表に出すこと,本によって精神を高めていくことになる。

 

私も,大なり小なり,(心の中で)罪を犯す人間なので,読書に励んで学んでいきたい。

 

                                                                    ◆◆◆ 【SM】  

 

  刑務所。法律では「人権の尊重」が謳われるが,きっちり管理されぎりぎりまで尊厳を奪われるのではないかと憶測する。その刑務所で「読書会?」と読者の度肝を抜く。多くの人がそう思いながら,本書を手にしたことだろう。感想を3点にまとめてみたい。

 

1 内容の読み取りに感銘は受けるが…

 

「罪を犯した行為」と「読書をしてどう感じるか」は別もの。また読書が総ての読者を即変えるとは想わない。被害者や受刑者の感情を逆なでするかもと想いながら読んだ。

 

『スリー・カップス・オブ・ティー』を読んだグレアムは,感動の嘘を見抜く。主人公を英雄だというキャロル等の見解に疑問を呈し,家族を置き去りにした暮らしぶりや慈善団体の運営の仕方にはおかしなところがあると指摘した。その後疑惑が放映・暴露され,詐欺罪で告訴された。いわゆる「正論」は偽善に敏感な彼らには伝わらない。

 

『月で暮らす少年』を読んだ受刑者達は,父親の気づかぬ偽善を見抜く。CFC症候群を患う息子を介護する父親にボランティア達は畏敬の念を抱くが,受刑者達は父親は恵まれた生活環境にいるのに人生を犠牲にしていると言うのは甘い」と手厳しい。

 

『サラエボのチェリスト』を読んだリチャードは,サラエボが包囲された間,女性達が非道な仕打ちを受け,残虐行為が戦争犯罪として裁かれたことを付け加えただけでなく,イスラム教と徒キリスト教の衝突が描かれていない著者の意図まで考えようとする。

 

いずれの感想も生育環境で育まれた鋭い感性が光る。本著が世間に一定の感動を与えたことは否めないが,ドキュメントの名の下,連ねた美談で読者に「美しい錯覚」を覚えさせているのではないかと危惧する。私だけだろうか。

 

2 「キャロルはどうしてキャロルなの?」

 

竹原読書会でも話題となったキャロル。次から次へと刑務所読書会を広げようとする情熱はどこから生まれるのか。母の跡を継いで英国国教会の司祭になり受刑者に対し高まっただろう慈悲。祖父の祖父から代々受け継いだ商売を興し業績を上げる“才知”,人に尽くすことをよしとする“家風”。熱心な読書家の母に育てられ英文学を学んで教師になったこと。それらが彼女の中で有機的に連動し原動力となり彼女を支えている。

 

3 私にとって読書会のよさは…

 

①【読むこと】 課題本が決められるので自分では選ばない本と出会う。また4,500ページと頁数の多い本も,課題本だからと自分に課す。結果として多様な本を読むことができる。読めば内容に感動し,生きる智慧を学ぶことが多い。その感想をどういう言葉で表現するか七転八倒するが。

 

②【語り合うこと】 自分の感想を初めは恐る恐る慣れたら忌憚なく発することができ,会員の皆さんの違う感想も聴くことができる。「そうよね」と共感したり「そうか」と共有したり,心を動かされ頭をフル回転させて,本の内容を深く理解することができる。

 

③【考察すること】 自分の生き方やありたい人間性の輪郭がよりはっきりしてくる。

 

今私は読書会の虜になり,「呉 一葉の会」や「神石高原 変なお茶会」に参加させて貰っている。どこへお邪魔しても読書会後,考察する時間に余韻として課題本や著者の世界観に浸るあの感覚が,今の私にはたまらなく生きる充実感を与えてくれている。

 

さあ,♪「アルビノーニのアダージョ」を聴きながら,竹原書院図書館で借りた『サラエボのチェリスト』を読むことにしよう。