2018年12月

                               

 

課題本『生きるこだま』岡部伊都子/著 岩波書店

 

 

 

読書会を終えて

 

                                              講師 吉川五百枝

 

 

 

部屋の窓を通して庭を眺める。木の葉がすっかり落ちて,枝が露わになっている。その枝の重なりの少し向こうに,隣家が見える。そのもう少し先には,行き交う人や車が見える。

 

さらにその向こうには...足尾銅山が,水俣の海が,沖縄の基地が,朝鮮半島が見える。岡部伊都子の作品は,自分の座す部屋の窓に端を発していても,その視線の先は縦横無尽である。130冊あまりの著作に目を通したわけではないが,岡部作品は,自分の日常を見る目から離れたところを出発点にする気配を私は感じない。〈生ま身からの発想,発信〉と言われる所以であろうか。

 

今回テキストにした『生きるこだま』も,彼女が仰ぎ見る人々の話ではあるけれど,その伝記を客観的に書くというより,自分の見た,感じた,触れたその人たちを,とらえる網を自分の手許にたぐり寄せた後,大きく放っている。

 

最初に掲げられた人,丸岡秀子。 1990年 87歳で没した。

 

〈生後10ヶ月で母を亡くし,里子に出された後,4歳からは生母の父母に育てられた。〉そこで見た〈苦しい労働のあげくようやく収穫した米俵の半分を,翌日には地主の車に持ち去られる小作生活の悲痛〉を人生の原点とする。〈個性を埋没させた女性の犠牲を当然とした社会状況〉に敏感で,〈沖縄を踏みにじっている現実〉をみすごせない。〈戦前の農村からの実感に満ちた視野を人権の基盤に据えて〉それを火種とする丸岡秀子を〈厳格な女性問題評論家〉と筆者は仰ぐ。

 

次に,末川 博。 1977年没 84歳 。

 

立命館大学総長を勤め,大学紛争の中で,学生の話を聞こうとする学長であった。〈「学生は良いよ,学生がかわいい」〉と言い続け〈歴史も学問も教育も,その根底には,真実を貫き真実を求めるという基本的な姿勢がなければならない〉と考えて戦前の立命館から,〈民衆の民主主義学校にしたい〉と望んでいた。デモクラシーに対して,「モブクラシー」(モブとは衆愚)という言葉を使ったとこの作品にある。学生達に〈未来に生きよ〉と語る想いの底には,〈自分では考えない,自分では行わない日本人〉の現状を指摘する鋭いまなざしがあると,筆者は感じているようだ。

 

続いて多くのページを占めている荒畑寒村。1981年没 93歳。 

 

 彼の人生は,〈いのちある限り民衆を生き,民衆を活かす志をもやしつづけてこられた貴重な魂の,民衆を含む人間社会への怒りだったのではないか〉と筆者は受け止めている。

 

〈「ソ蓮や中国など,革命を達成した国々が,それはひどいことをやっていますよ〉」。社会主義国への彼の批判を岡部伊都子は書く。晩年の遺言のような〈「過去の問題の失敗を誰か言っておく必要があると思いましてね。」〉という〈「自分で自分の腸を食いちぎるような思い」〉も,日本共産党創立に関わった彼の社会運動の経歴を見ると,岡部伊都子ならずとも,公表してあげたくなる最後の言葉だ。観念やスローガンの前に,人間性で付き合い,そこから来る誤解をさけられなかったと筆者は見る。足尾銅山の鉱毒事件で,「谷中村の汚染 やむなし」と考える政府や世間への激しい抵抗をした田中正造も,教科書から消えた,と記し,〈「行政とは,資本の側にたつものか」〉という荒畑寒村の言葉も取り上げられている。彼の妻である須賀子と幸徳秋水とのややこしい関係も,他の作者が取り上げているが,筆者はあまり取り上げていない。文中で,寒村のことを〈熱情の人,直言直筆の人,塵程も己を曲げぬ意思のままに言動したる人,清き人なり〉というかつての妻須賀子の文章を書き写して,寒村,須賀子,秋水の3人の関係は流れ去っていく。

 

歴史をひもとけば登場する先の3人に対して,歴史年表には登場しないけれど,岡部伊都子の真骨頂を語るような最後の2章が登場する。

 

 筆者の兄である岡部博は,1942年にシンガポール攻略戦で戦死した。228か月であった。私の母の弟も,同じ年,若い身をシンガポール戦で散らせた。母は,その弟のことを私によく話した。自慢の弟だったのだろう。だから1941年に始まり,戦線を拡大していった「民族共栄」理念が,多くの血を吸い込んでいったことは,他人事ではないのだ。

 

「民族共栄」理念とは相反する旧満州や朝鮮半島での〈ひどい植民地政策,皇民化政策などを自国の悪としてとらえる視野がなかった〉という筆者の忸怩たる想いに,私の母もうなずくことだろう。「自分は天皇の為には死ねない。あなたのためなら死ねるが」この戦争はまちがっていると思うと語る婚約者に,「私なら 天皇の為によろこんで死ぬ」と言い放った銃後の女が味わう加害意識。読書会で,この「加害の女」の意識が取り上げられた。「名誉の戦死を死ね」と送り出した兵士の母や妻たち。後年,私の母と義母が一緒にシンガポールを旅した。かつての日本軍が散ったといわれる地に足を踏み入れたとき,母の目に涙があったと帰ってきた義母から聞いた。あの戦時下,流してはならないと教育された涙だった。戦争の時代,私はこどもだった。だから罪はないという人もあろう。しかし「あなたのためなら死ねる」その「あなた」は,岡部さんだけではない,私もその1人なのだと言おう。戦いに赴いた11人は,銃後にいる者を守るつもりで出征したのではなかろうか。それなら銃後にいた私もまた〈加害の女〉の列に加わらなければならない。

 

岡部伊都子の罪の意識は,これだけではない。この作品が語られてすぐの9ページに,早くも「罪」が登場する。〈母を呼び得ぬ人びとの心の痛みをかえりみずに母を呼んできた自分の罪〉という「罪」である。母を母と呼び,母に甘えてきた自分の傲慢さを自分の中に見るのだ。当たり前のことだと見過ごして,母と呼ぶことのできない人の心の痛みに気付かなかった自責の念を言う。これは,そのまま,水俣の人の苦しみや,基地の島とさえ言える沖縄の人々が担う荷の大きさを,気にもかけないでいた自分のことでもある。母という身近なところから立ち上がって,気付かないで犯している差別への視線を,読み手と共有しようとする執筆活動であろう。書くことによって,〈こだまは生きてこだまし続けて〉いく世の中を念じているのだと思う。この読書会も来月は,各自が,岡部伊都子から発信された〈こだま〉を聞き取り,自分の〈こだま〉として表そうということになっている。 

 

 

 

 

 

 『生きるこだま』 三行感想 

 

 

 

◆戦前とその人生の青年期,壮年期を送ったとりわけ学者,作家,思想家の人生の辛苦を思う。はじめの三篇はほぼ同時代に生き,それで正しいとか悪いとかでなく,自分に対して真摯な一途な人生を貫いた。あとの二編は戦争に対する女性の考え方,捉え方が哀しい。 【YA】

 

 

 

◆婚約者・兄の死から,女は被害者ではなく,加害者だと考えるようになった作者。また,

 

不実なものと闘い続けた丸岡秀子,末川 博,荒畑寒村との交流から強烈なこだまを感じ,こだまが生きて,こだまし続けることを願う作者。このこだまを受けとり,少しでもだれかにひびかせることができたら素晴らしいな!!と思う。 【T】

 

 

 

◆1,2,3は女性問題評論家,民法学者,労働運動家,4,5は市井の人々。それぞれが岡部伊都子さんに影響を与えた人々に付いて,ざっと(・・・)ざっと(・・・)書いてあります。 この本一冊で,岡部伊都子さんを理解するのは無理でした。 【N2

 

 

 

◆戦争をいろいろな方面から考えさせられる本だった。非戦思想の男たちまで戦場に追い立てた女性たちを加害者であると言われている発想に,すべての周りのものが加害者となる戦争の恐さを思わされた。 【Y】

 

 

 

◆岡部伊都子さんのイメージが全く違ってきました。彼女の書く本は凡ての人に優しく読みやすいですが,内容の底には深い思いが流れています。なかなか手ごわいものがありますヨ!オススメします。 【K子】

 

 

 

◆今日も有意義な時間になりました。来月のそれぞれの「生きるこだま」も楽しみです。

 

【MM】

 

 

 

 

 

 『生きるこだま』 感想 

 

 

◆◆◆ 【C】

 

 読めば読むほどよく知らないことばかりで,恥ずかしいような思いがした。

 

本の前半は,昭和前期から農村女性の地位向上や平和問題に貢献し,日本の女性問題評論家の草分けである丸岡秀子氏,民法の大学者であり,六法全書編纂,立命館大学名誉総長の末川博氏,社会運動主義者で,足尾銅山鉱毒事件の『谷中村滅亡史』を書いた荒畑寒村氏,その三人と岡部氏が関わった日々を書き綴っている。私は三人のことを知らなかった。きっとこの方々を知らないことは,恥ずかしいことなのだろうと思った。しかしそれ以上に私の中では,この三人を取り巻く社会,歴史のことをよく理解していないことが問題だった。歴史を知らないということは,今の自分の立ち位置を知らないということ,自分の命の繋がりを知らないということである。知らないことは罪なのだと,じんわりと汗をかくような心持ちになった。

 

 そして後半の<4 加害の女から>。

 

岡部氏の罪の告白のような文章が強く心に響く。

 

<軍隊での精進を「臣節の道」と,信じていた>22才の兄の戦死。そして,この戦争は間違っている,君のためになら死ねるけれど,天皇陛下の為には死ねないと言う22才の婚約者に対して,「私ならよろこんで死ぬ」と答えた若き岡部氏。そのことをのちに,<戦争のため,愛しい男たちを送り出した女たちは,被害者だという気が深かった>が,<戦争で死にたくない男側からみれば,「なぜ,喜んで死ねとばかり送り出すのか。女なんて,愛するとは口ばかり。当然のように男を殺す側に渡す」と恨めしく思っただろう>,<母も恋人も姉妹も戦争に組して男の子たちを殺す方法を手伝った>。私は<平気で,当然のように殺しにゆけ」と旗振った女>。自分の戦争責任,女の加害責任を高らかに言い放っている。あの時代,皆そうだった,しかたがなかったと逃げず,血の涙を流しながら,吐くように告白するその姿が見えるようだ。しかしうなだれてはいない。泣きながらも,忽然と面を上げて,前を見すえているような気がする。嫌なものを見ない,記憶を消し,忘れようとすることもできただろう。しかしそれができないのが,岡部伊都子という人物なのだろう。

 

<わたくしにとって,もっとも身近かな魂である二人の在りかた,方向,そして若く死んだ現実が,いまも濃く激しく,過去を過去たらしめない>

 

何も過去にはなっていない。今もその愚行は,くり返されそうな情勢である。

 

ふと,以前読んだ,カズオ・イシグロ氏の『忘れられた巨人』を思い出した。

 

 <おびただしい死が,あった>。

 

虐殺,慰安婦,自決という名の殺害,玉砕という名の殺戮・・・読めば読むほど,苦しくなる。私の命を繋いだ道は,歩んでいるその足元には,多くの人の血と叫びの道なのだと,読み進むほどに,罪深さに震えるような心地がしてくる。どこに活路を見出せばいいのか。

 

この重きこだま達を,どうしたら受け止められるのか,私にはまだ見つけられない。

 

 

 

 

 

◆◆◆ 【YA】

 

 本を開いて目次を見ると丸岡秀子,末川博,荒畑寒村の名が並び一気に記憶が蘇り若い時に聞いたり読んだりした事があった。
 丸岡秀子と言えば女性がまだ低く見られていた時,殊に農村の女性の地位向上に奔走し,平塚らいてう,山川菊栄,市川房枝等が続き婦人参政権の権利を得る。彼女たちの新しい基本的な考えの運動に光が見えた。しかし現在でも世界から見れば日本の社会での女性の活躍の場は少ない。又末川博,荒畑寒村の名を見るとこの戦前の日本では本当に沢山の著名人が獄死したり人生を断たれた人が沢山いる。幸徳秋水,小林多喜二等酷い事が起きている。
 思想弾圧,即ち人の信条や思想に国が介入し横行していた事に恐怖する。とにかく戦前の日本は国が有無を言わせず同じ方向に向かせて人を縛っていた。典型が戦争だ。女も加害者の項があったが決して喜んで戦争に送り出してはいない。その様に仕向けられていたに過ぎない。
 又今現在戦前の日本に雰囲気があると言われている。決して二度と人の内面に国が介入する事がない様にしなければならない。
 亡くなられた人たちが今も尚私たちに強烈に心に感じさせてくれているし,心しておかねばと思う。

 

 

 

 

 

◆◆◆ 【MM】

 今月の課題本も読書会のご縁がなければ出会うこともなかったと思う。

 文章は読みやすくて引き込まれるが,学生運動や戦争など経験してないことも多く,一度読んだだけでは理解できなかった。

 再読しても印象は変わらず,共感できるから先が読みたい,というのではなく,自分にない価値観に触れて先が気になりページをめくり続けた。

 4章の「加害の女」では作者の兄と婚約者について書かれている。近い年の兄が長男ではない,また実家が商家で学問は必要ないという父の考えのもと希望する進学は叶わず,思いを寄せた女性とも学歴が元かどうか結婚までは至らなかった。その後徴兵検査に合格し航空兵となった。幼かった頃からの兄のエピソード,そして成長して青年になって戦地から妹を励まし妹の手紙にも励まされながら訓練を続ける兄。そんな兄が思いを遂げることなく戦死してしまった。兄も婚約者も自分も清いまま戦争で離ればなれになり男たちは死んでしまった。まさに戦地に向かおうとする婚約者が「天皇のためには死ねない,君のためになら死ねるけれども」と言った時の作者の答え。自分を責めているけどなにもそこまで思わなくても,とも思った。婚約者に放ってしまった言葉には後悔の念はつきまとうだろうけど,すべての女性が加害というのはどうだろうか。被害の対義として使われたのかもしれないが。

 今月の読書会で印象に残った言葉は「『加害の女』とあるけれど,女だけじゃなくその時いた人すべてが加害では?」ということ。これにはうなずける。女性だけが被害者加害者ではない。「そこにいた人すべてが被害者であり加害者」というのがいまの私の気持ちに近い。この「加害の女」については来月の「わたしの生きるこだま」でまた何か新しい出会いがあるのかな,と期待しています。

 来月はそれぞれがこだまを受け取り,それを「私の生きるこだま」として持ち寄る。楽しみだが自分のまとめもしなくてはならない。楽しみなような気が重いような年末です。

 今月もありがとうございました。

 

 

 

 

 

◆◆◆ 【SM】

 

岡部伊都子との出会いはいつの事だっただろう。記憶があいまいである。

 

本棚にある岡部伊都子の本を探すと,『出会うこころ』(淡交社1994年),『岡部伊都子集4巻 古都 ひとり』(岩波書店1996),『海竜社1998年』,『おもいを語る 未来はありますか』(昭和堂1999年),『沖縄からの出発』(講談社1992年)があった。また彼女の随筆を雑誌などでも目にすることが多かった。想えば数十年前のことである。

 

彼女の扱う主な題材は,戦争(加害者としての立場から見た視点),沖縄(返還及び米軍基地設置などに対する沖縄以外の人々の無関心),差別(部落差別,女性差別など差別される立場から見た視点),自然・環境問題(原子力発電所の危険性を指摘)などである。また美術・歴史・古寺・仏像など多岐にわたる。

 

岡部伊都子の「民衆の立場で,現実から目を背ける態度を厳しく批判し,世相を斬り綴る姿勢」は,若かった私には斬新に映った。

 

 

 

今月の課題本『生きるこだま』には,彼女の心に「生きてこだまする」逝った人々との魂の交流が記されている。

 

第一章の丸岡秀子は,小作制度にあえぐ貧村への憤りを火種にして声を放った勇気の人であった。第二章の末川博は,学生をこよなく愛し,自ら身を処し未来に生きよと言い通した人であった。第三章の荒畑寒村は,人間らしい革命への烈しい志を貫いた人であった。第四,五章は戦火で奪われた青春群像であった。婚約者(木村邦夫さん)や兄(岡部博さん),被爆の友前田栄子である。婚約者を戦場に送り戦死させたことへの自戒,兄を初め多くの命を奪った戦争を批判しなかったことへの自責の念を込めたものだった。

 

『生きるこだま』を読んだ後,三つの感想が心に残った。

 

一つ目は,時代のズレに戸惑いを感じてしまった。

 

二つ目は,若いころ読んだ時とは異なる読後感であった。すなわち罪とか加害の女とか過激な言葉は並ぶが,何となく上滑りしている感は否めない。今想うと,批判している対象が巨大すぎて,対象の何に対して,どのような問題点を指摘しているのかが分からない。さらに問題点をどのように解決しようとしているのかも分からないと感じてしまった。

 

三つ目は,どうして何度も“加害の女”の随筆を書くことができたのだろうかという疑問である。婚約者のことを思い出す度に,胸がかきむしられるだろうに。

 

読書会でこの想いを吐露すると,「岡部伊都子の自戒の想いが軽いのではないか」という意見も聞くことができた。また「自分を責めているように映るが,他者への批判も感じられる」という意見もあった。会員の皆さんの意見で「なるほど!」と深く納得した。

 

すると講師の吉川先生が,「自分を責める文を書くのは難しい。よほど言葉を選ばないと他者をも責めてしまう」と仰り,感慨を覚え,多くの言葉を知らぬ私は絶句した。これまで読書会で,自分を責める文を鱈腹書いてきたからである。

 

沖縄米軍基地の辺野古移設のための土砂流入のニュースを聞くたび,岡部伊都子が生きておられたらどれだけ心痛めることだろうと案じる。時代逆流の昨今,今を生きる一人として「目の前に起こっていることから目を離さないこと」と「自らの行いを問うこと」は,岡部伊都子さんから学んだこととして貫いていきたいと念じる今日この頃である。