2018年6月 

 

 

 

課題本『猫を抱いて象と泳ぐ』

 

                        小川洋子作 文藝春秋   

                 読書会を終えて 

                                 講師 吉川五百枝

 

 

 

読書会のテキストとしてこの本に出会う縁は過去に何回かあったが,記憶に残る最後の機会は8年前となる。その時書いた感想文の題名は,「小川洋子の交響楽団 ― チェスの

 

名演奏を聴く-」としている。

 

今回も音楽を聴いた。ただ,今回は,先月の『羊と鋼の森』でピアノの音を聴いた後だから,その余韻がチェロ協奏曲の感じとなった。

 

チェス盤の下を自分の居場所とする少年リトル・アリョーヒンには,華やかさよりも深さや重さの響きがあったのだと思う。それに,彼の終焉の地となった老人専用マンションが,「エチュード」というのも,意味ありげにウインクされた気分だ。

 

先月は,ピアノの「森」だった。今月はチェスの「海」だ。

 

「森」の作者は「森」について多くを語らず,読者の知っている「森」のイメージに想像をまかせた。今月の「海」は語彙豊富に語られ,読者の知っている「海」のイメージをたじろがせる。題名からして,猫も象も泳ぐのだ。読者の既知のイメージなど当てにはしていない。

 

私はチェスを指したことがない。初めて読んだとき,少し本で知識を仕入れたので駒の名前や働きは知ったが,それも今では大方を忘れている。

 

乏しいチェスの知識で何を魅力に感じて読み進めたのか。

 

小川洋子の発想の柔軟さとそれを語る語彙力だ。読者に馴染み少ないチェスを材料にしながら,作者の発想につきあってもらえるように言葉を惜しまないで注ぎ込む。

 

リトル・アリョーヒンというチェスを指す少年をソリストに迎え,おばあちゃんや家族,バスの中で初めてチェスを教えたマスター,老婆令嬢などのチェス仲間が取り囲んで,彼の旋律を受け入れながら交響させる。

 

先月のテキストと今月のテキストに共通して「美しい」という言葉が何度も使われる。敢えて順序立てたわけでもない各月の課題本に,褒むべき言葉として続くのは,毎月の参加者としては楽しくなる偶然だ。

 

〈リトル・アリョーヒンが最も重視したのは棋譜の美しさだった。間の抜けた鈍重な手を指す弱い相手の時でも,新たな風を巻き起こし視界を広げるような手を指し,棋譜に記される1行が調和する方向に目を向ける。〉

 

勇敢なチェス,麗々しいチェス,冷徹なチェス,奔放なチェス,それぞれの相手の差し手に光を当て,美しい棋譜を創り上げようとする彼が目指すのは〈相手も含めてすべての駒を星座の一点として生かす。〉というチェスなのだ。「宇宙の星座」を具体的に地球上の

 

「海」に凝縮していく。だから勝つことにのみ拘る賭チェスは好まない。

 

〈チェスの海は果てしなく,海底ははるかに遠いが,不安など一かけらもなく,唇の奥で沈

 

 

 

黙を暖めながらどこまでもどこまでも深く沈んでゆく。〉

 

海というのは,見る事ができ,身体で触れる事もできるが,本来の形はなく,力や量を判断することはできない。具体的でありながら抽象性を帯びている。

 

リトル・アリョーヒンが潜り込んでいるチェス盤の下や,からくり人形の中は,光りが射さず暗い。だからこそ,目で見て判断することからは解放される。

 

作中にキャリーバッグを手放さない老人が登場する。そのバッグの中身は,手袋の片方,

 

消しゴム,靴紐など,がらくた同然の品名が書き並べられる。これらが具体的な世界だ。だが,その老人には,がらくたではなく,その一つ一つに固有の物語があって,バッグには収まりきれない目に見えない世界が息づいていることは察しが付く。見かけの姿に惑わされなければ,心はいくらでも時や場所を越えて自由に旅することができると読者に思い出させるのだ。 

 

しかし,見えるものから見えないものを感得するのは容易なことではない。人の想像力は,感得したものをすぐに既知の形に当てはめる。そこで作者は,チェスを使って,猫を抱き象と泳ぐという聞いたこともない物語を生み出した。聞いたことも見たこともない物語を生み出すことによって,見えないものが再構成され自由な姿態を身にまとう。

 

チェスの駒の動きには制約がつきまとう。つまり,リトル・アリョーヒンにとってのチェスは,制約だらけの現実の人生でもある。その現実を,受け入れ,自由に泳ぐには,チェスを教えてくれたマスターと暮らしていた猫ポーンは,盤上の駒ポーンと重なって,人形の“リトル・アリョーヒン”に抱かれている。屋上から降りることの出来なかった象のインディラを蘇生させ,ビショップという駒にして盤上を自由に泳がせる。生物としての猫も象も,リトル・アリョーヒンとの関係性が生じたことによって別の意味を帯び,既知の姿を離れて具象から抽象に転ずる。狭くて暗い空間でも,彼は自由になれる。

 

時には,ルールに沿わずとも,チェスが美しく終了する光景描写を交えながら,小川洋子は勝負の決着に別の言葉を付け加える。「最強の手が最善の手とは限らない」と。強さが善とは限らない。結果第一主義を採る現実の世の評価が隠している見えない傷みや弱みに思い当たる。

 

ミイラと呼ばれる少女が,邪心もなく無垢の化身のように描かれる。リトル・アリョーヒンとミイラの間で交わされた手紙によるチェスは,勝負を競うものではなく,心の交流の棋譜であった。彼の死によって二人の棋譜は完成しないのだが,例会では「かわいそうに」,という意見と「それでも暖かさが残った」という意見が出た。

 

何もかも完成させて死を迎えたいが,死の縁は無量である。死に方も,死の意味も,誰にも量ることは出来ない。膨大な小説は,無量のノイズも採譜しようとする未完の交響曲群ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 『猫を抱いて象と泳ぐ』 三行感想 

 

 

 

◆【読書会前】 なんと不思議な物語です。平成22年の課題本でした。すっかり忘れていましたが,読みだして少しずつ思い出しました。あまりにも現実離れした内容だし,題を見ても猫・象なんなんだと思っていましたので,八年前に読んでいても頭の隅に残っていたのでしょうか。たくさんの本を読んでいますが,すっかり忘れているのが,おおかたです。空想の世界に生きていて現実の世界はチェスを指す時間。最後は有害なガスにより息絶えました。現実的な原因で最期を迎えました。本当は,リトル・アリョーヒンはどんな風にこの世から消えていったのか,気になります。

 

【読書会後】 チェスとか将棋とかトランプとか麻雀とか,私とは縁のない世界です。好きなことをして自由な人生を送って終えた主人公は幸せだったのかもしれません。

 

【M子】

 

 

 

◆まるで絵本のように想像が膨らんでいく。しかもその中に少年が成長していく姿が微笑

 

ましい。教育者がのびのびと自由に美しく育てる方法がよくわかる。 【TK

 

 

 

◆祖父母,マスター,ミイラ,総婦長,老婆令嬢……etc,みんなリトル・アリョーヒンにやさしい人ばかり。最後にミイラと会わせてあげたかった。想像力が乏しいので,深いところは充分理解できていない。 【KT】

 

 

 

◆この本に課題本として出会ったのは2回目です。それぞれの置かれた環境でも自由に

 

生きることができること,「自由」ということは美しく生きることでもあると示してくれる。

 

小川洋子さんのペンの力を再確認する読書会であった。 【E子】

 

 

 

◆大きくなることを拒み,11歳で成長を止め,人形の中でチェスをうち続けたリトル・アリョ

 

ーヒン。やさしさと共に切なさも感じる話です。でも最後の方ではあたたかい気持ちになりました。 【T】

 

 

 

◆再読です。大きくなる事への恐怖。大きくなる事で失ってしまうものを知ってしまった

 

リトル・アリョーヒンは,小さなままで,大好きなチェスをして,チェス盤の下で亡くなって

 

しまう。だが,彼の一生は美しい棋譜を描いたかの幸せに満ちていた。 【N2】

 

 

 

◆ふわっと優しい美しい小説だったが,何となく切なさが漂っていた。著者がどんな結末を持ってくるのか興味津々で読み進めたが,想像もしない結末。ハッピーエンドではなかったが,読書会の中で「ハッピーエンドは思考に蓋をしていること,正しいと思ったときには蓋をせず,もう一段深いところに潜って,もっと別な見方があるのではないかと考えてみる」と言われた事が心に残った。 【Y】

 

 

 

◆チェスをなさいますか?チェスの話ですヨ!小川洋子さんの題材の求め方は独特,幸福と甘い香りとやさしい気持ちが満ち溢れた小説です。文章の美しさは抜群です。

 

オススメ! 【K子】

 

 

 

 

 

◆沈黙の中,チェスの盤上で奏でられる美しい棋譜。リトル・アリョーヒンのチェス盤は邪心がなく,毅然として,慈愛に満ちており,その盤上で美しい協奏曲を奏でる。深い沈黙は無限・無量の雄弁を語るのかもしれない。老婆令嬢は「自分自身から解放され,勝ちたいという気持ちさえも超越して,チェスの宇宙を自由に旅する……」と。 【S子】

 

 

 

◆小川洋子さんを熱く語られる参加者の皆さんの情熱に動かされて,作者への興味が俄然わいてきました。参加して良かったです。ありがとうございました。 【MM】

 

 

 

 

 

 猫を抱いて象と泳ぐ』 感想 

 

 

 

◆◆◆ 【C】

 

好きな本が課題本になると嬉しい反面,悩ましい。この本も何年か前に読書会で取り上げられたのだが,感想がうまく言えなかった。好きであるから,読んでいるとその世界に入り込んでしまい,ちょっと距離をおいて読むことが難しい。距離をおいて読もうとすると,読書の楽しみが半減してしまう。

 

小さな事件が起こりつつも,静謐なこの物語は,惜しみない愛に溢れていて,ただただ, その海に漂っていたいと思ってしまう。

 

 

 

物語の主人公リトル・アリョーヒンの人生は,幼き日,チェスを教えてくれたマスターとの日々,パシフィック深海チェス倶楽部で人形に入り,ミイラの助けを借りながら倶楽部の会員達とチェスをした日々,そして老人専用マンション・エチュードに住み込んで老人相手にチェスをした日々と流れていく。(私は特にエチュードの話が好きである) 

 

彼の人生に関わる人は,(チェスの相手以外では)限られた数人なのに,そこには死の匂いが漂っている。身体が大きくなることへの恐怖は,象のインディラのことやマスターの死が主な原因であるのだろうが,死そのものへの拒絶にも感じられる。大きくなること=成長すること=死,のイメージがあったのではないかと。大切な人を失うことの予感からくる恐怖。しかし死んでもなお,マスターはリトル・アリョーヒンにとって,側にいる人であった。マスターとの思い出と共に生きていた。

 

そしてこれ以上大きくならない体で,限られた空間である人形の中に入っている。その狭さを私たちに感じさせないのは,チェスの海が果てしないからだ。チェスのことは分からなくて

 

も,小川さんが紡ぐ物語を読んでいると,リトル・アリョーヒンと共に,チェスの海へ,インディ

 

ラやポーンと共に潜って行けそうな,美しい景色を眺めているような錯覚に陥る。

 

チェスはゲームというより,人生そのもの。マスターは言う。「チェス盤には,駒に触れる人間の人格すべてが現れ出る」,「チェスは,人間とは何かを暗示する鏡なんだ」。

 

 

 

今回読んでいて,特に心に残ったのは「沈黙」という言葉だった。

 

リトル・アリョーヒンは生まれたとき,唇がくっついていた。「誕生の時点で,言葉の出口である器官を失っていた」。まるで言葉を発することは必要ではないかのように。

 

チェスも表面上は沈黙の中,進むゲームだ。しかし対戦相手と真っ向から向き合い,静かに戦っている。チェスは「敵と自分,二人で奏でるもの」。

 

「心の底から上手くいっている,と感じるのは,これで勝てると確信した時でも,相手がミスをした時でもない。相手の駒の力が,こっちの陣営でこだまして,僕の駒の力と響き合う時なんだ。そういう時,駒たちは僕が予想もしなかった音色で鳴り出す」。

 

沈黙は本当はとても雄弁なのではないかと思う。沈黙が深ければ深いほど,言葉という手段を使わずに,多くを語っているのではないか。むしろ言葉では表現しきれない何かを。それをキャッチできるのは,マスターやリトル・アリョーヒン,ミイラ,老婆令嬢やキャリーバッグ老人のような人達。

 

孫を愛しぬいた祖母が言う。「あの子には言葉なんかいらないんだよ。だってそうだろう?駒で語れるんだ。こんなふうに素晴らしく……」

 

エチュードの何人かの老人達は「長年のチェス人生によって培われた沈黙をまとっている人々だった。その沈黙は,リトル・アリョーヒンが生まれる前から唇の奥にたたえていた沈黙と,つながり合っていた」。

 

沈黙とは何だろうと,ますます思う。そしてその沈黙をまとえるような人になりたいと憧れる。 

 

 

 

 

 

 ◆◆◆ 【TK】

 

久々に子供の頃,絵本を読んでいた時の感動を味わえました。大人になって絵本を読むとどうしても 子供ってこう感じるんだろうなと思うのですが,この本は,大人で今の感じ方で十分楽しめます。大人の絵本童話として楽しめました。

 

そして,主人公がチェスを教えてもらうのに,いかに辛抱強く広い心の中で自由にのびのび成長していくのかがよく分かります。教育とはのびのびあらゆる可能性を引き出していくものだとよく分かります。

 

そしてさらに,勝負とかゲームで,最強より最善が大切だと,楽しむ幅が広がります。そして色々な人とチェスを楽しんでの,チェスを通してのお付き合いが,主人公のメインのテーマでした。

 

最後に老人ホームみたいな所で,チェスをしてあげるのも主人公の優しさです。

 

そして,なんと老人より主人公が突然亡くなってしまったので,びっくり。悲しい絵本でした。 

 

                    

 

 

 

◆◆◆ 【N2】

 

読後に余韻を残すきれいな小説でした。                           

 

こころ暖かな人々に囲まれて成長する少年を通して,チェスの世界を垣間見ることが出来ました。チェスと聞くと,スマートでおしゃれな頭脳ゲームとの認識でした。無言の対局の盤上には駆け引き,せめぎ合い,容認,繊細さと優美さとダイナミックさ,そして哲学,情緒,教養,品性,自我,欲望,記憶,未来もすべてが隠し立て出来ないゲームだと知りました。私は棋譜の美しさを理解できるようになりたい。ミイラと少年のやり取りした手紙の中にあった棋譜を理解したい。

 

屋上から降りられなくなった象のインディラは屋上に閉じ込められたまま一生を終え,巨漢のマスターは豪邸のようなバスの中で閉じ込められたように亡くなり,ミイラは壁の隙間に挟まれており,少年はチェス盤のなかに閉じ込められているのだが,それぞれが安心できる場所を持っている。マスターは少年が自分の発する光だけを頼りにどんな深い海溝にも冷たい海流にも,ひるむことなく無比の軌跡を描けるように導いてくれた。マスターと出会ったことにより少年は好きなことを見つけ,それを仕事として生きることが出来,最後は好きな対局を待ちながら,安心できる場所で計らずも生を終えてしまったのは幸せなことだと思う。生まれながらに口が開いていなかったというのはお祖母さんの言っていたように普通の人にはない特別な仕掛け,沈黙の中で自由に広い海を泳ぐことが出来るという力を得るという事だったのではないだろうか。

 

 

 

 ◆◆◆ 【MM】

 

課題本にならなければ読むことがなかった作品だと思う。普段の流れで課題本を読んで参加したのだが,読書会では会員のみなさんが熱く作者や作品について語られ,俄然興味がわいてきた。

 

作者については『博士の愛した数式』が代表作と知っているくらいで,作者がたどってきた道筋やこれまでの作品など詳しくなく,ほぼ真っ白な状態で参加した。それが今となっては良かったのだと思う。驚きとともに素直に自分の中に入れることができた。次に手に取りたい本が見つかったし,作者自身にも興味がわいてきた。

 

これが読書会をやめられない理由の一つだ。本との出会い,人との語らい。一人で読んでいては開かない新しい引き出しを得ることができて本当に楽しい。

 

今月の読書会で印象に残った言葉は「私たちはわかったつもりになる」「正しいんだ,と思ったときそのことに蓋をしない」「人生を深めていくためには『見えた・わかった』ということ

 

 

 

に疑念をもつ」。―わかった,理解したということに疑念をもつ― 他の人からも似たようなことを言われたことがある。それを思い出すことができてよかった。思い出すということは忘れていてできていないということだから。

 

参加者が持参していた絵本が私の好きな絵本で,それが課題本の作者,小川洋子さんの初めての絵本ということをすっかり忘れていた。図書館で借りて再読した。置かれた状況を受け入れて,そこから始める。つながっていて深い。

 

来月も楽しみに参加したいと思う。