2019年1月                               

 

みんなで学習会『こだまを追って』

 

~岡部伊都子著『生きるこだま』から受けた「こだま」を追って~

 

 

 

 読書会を終えて 

 

            1月 課題 『生きるこだま』の「こだま」レポート 

 

           こだまする『谷中村滅亡史』荒畑寒村 著)  

 

         講師  吉川五百枝

 

 

12月例会のテキストになった『生きるこだま』で、著者の岡部伊都子氏が中継した「こだま」は、登場した荒畑寒村氏の著書紹介を経て私の元に届き、それは岩波ジュニア新書〔1993年〕『田中正造』の著者佐江衆一氏や、大石 真氏(『たたかいの人 田中正造』偕成社)、大鹿 卓氏(『渡良瀬川』新泉社)などを招き寄せた。

 

岡部氏は、荒畑寒村氏について、〈民衆を活かす志を燃やし続けた〉人として挙げている。彼の事績の中で、『谷中村滅亡史』(底本は1907年平民書房発行の『谷中村滅亡史』。校訂を加え1999年岩波文庫として発行)を著したことは、重大事であった。

 

20歳の荒畑寒村氏が、悲憤慷慨のうちに書き上げ、のちに自ら「文章が幼稚で古くさく、我ながら拙劣さにやりきれない」と書いているものの、「公害と開発」の原点を書き記していることに違いはない。「足尾鉱毒事件」と呼ばれる公害問題への覚醒を説き、最初の警鐘を鳴らした書物である。

 

荒畑寒村氏が、この書物の筆を起こしたのは、田中正造氏から依頼があった故なのだが、もともと荒畑寒村氏自身が、民衆の主張を叫ぶ人であったことを岡部氏が『生きるこだま』の中で語っている。岡部氏が荒畑寒村氏について書かれた部分に、「田中正造」の名前が見える。今回は、岡部氏と荒畑氏に導かれ、この「田中正造」という人物について、「我がこだま」をまとめてみたい。

 

 

 

足尾銅山と田中正造の関係は、公害問題を考えるときには必ず出てくる結びつきだと思っていたがそうでもないらしい。私たちの例会でも、「田中正造」が教科書に載っていたことを覚えて居る人と、知らないという人とに分かれた。

 

調べてみると、戦後は2社の国語教科書に「田中正造」と題して載っていたことがあるとわかった。(国立教育政策研究所教育図書館レファレンス回答による)

 

1つは、光村図書 昭和52年(1977年)~昭和64年(1989)年 6年生。

 

もう1つは、教育出版 昭和52年(1977年)~平成17年(2005年) 6年生。

 

国語教科書ということなので、これらの国語教科書以外では、社会科の公害問題の記述で掲載されているのかもしれない。国語であつかわれているということは、公害問題の性格もさることながら、「田中正造」という人の生き方に焦点があてられていたということであろうか。岡部伊都子の『生きるこだま』で、〈「田中正造」が、教科書から消えた〉と書かれたのには、義憤の口調が感じられる。

 

〈戦前の地理教科書と国語教科書においては、記述はすべて「銅山」であり、「田中正造」「足尾鉱毒事件」は見当たらない。地理においては、明治初期から国定教科書末期まで、ほとんどの教科書に1から数行程度記載されている。国語においては「足尾」「栃木」「下野」の地名が見えるのは6種類で在り、第1期・第2期国定教科書では、独立単元「足尾銅山」として記されている。 (東京学芸大学 板橋文夫論文より)

 

〈時の政府を震撼させた大型公害事件の事実と教科書記述内容の相違は、国家政策推進のため、国民意識を恣意的に形成できると示した事例である〉と板橋論文は締めくくっている。岡部伊都子は、教科書から「田中正造」が消えたと嘆いたが、板橋論文的に見ると、政府に利のある「足尾銅山」と、鉱害を明らかにする「田中正造」は、教科書では同位ではなかったのだ。書かれなくなったのは何か、その吟味に立ち止まらなければなるまい。

 

佐江衆一は、その著書に「鉱山主と親戚である政治家の国会答弁は、戦後、水俣事件などの公害問題で行われた企業のやり方や、政治家と企業が癒着する政治腐敗の構造がみえるようだ」と書く。大石真は「役人達が、まるで足尾銅山側のやとわれ人のように、農民達に不利なあっせんをする。財閥が、政府の高官とむすびついて、たがいに人民から甘い汁をすいあっている。古河もその例外ではなかった。」と書いている。「現代の公害解決の最大の障害の一つは、政府の企業保護の姿勢にあることはすでに広く知られている」と書くのは、『渡良瀬川』に解題を書いた宇井純である。これらの記述は、公害問題が持つさまざまな構成要素を、日本最初の公害である「足尾銅山事件」が、すでにもっていたことを示している。だが、「足尾銅山」は、戦争を勝利で終わらせるための大事な資源として注目しても、国策にとって「田中正造」は、書くに必要のない存在だったということだ。だから「田中正造」は消えても、教科書から「足尾銅山」は消えていない。

 

荒畑寒村が田中正造から〈(ねがわ)くば他日谷中村のために、一書を著して他に訴へよ〉と語られてから間もなく、谷中村破壊の悲報が寒村の耳朶を打った。〈予痛憤措く能はず、直ちに筆を執って草した〉のが、『谷中村滅亡史』である。

 

谷中村に何が起きていたのか。

 

佐江衆一(金子光晴の実弟)は、岩波ジュニア新書『田中正造』を著すに当たって、若い読者に呼びかける。〈まず渡良瀬川の堤防の上に立って耳を澄まし、心の扉をひらいてください〉と誘う。〈川の水音にまじって、約100年前の農民の怒りと悲しみの声がきこえてくるではありませんか〉〈鉱毒に苦しむ村々を歩き回った田中さんのわらじばきの足音も聞こえてきて、その足裏のぬくもりが君の靴底をとおして肌に感じられませんか〉

 

谷中村とは、栃木県下都賀郡谷中村(現在の佐野市)のことで、足尾山中に源を発している(わた)()瀬川(せがわ)流域の豊穣な村であった。

 

田中正造は、天保12(1841)渡良瀬川から北へ約10キロ離れた地で、農民の家に生まれた。

 

この渡良瀬川の源流の山中に足尾銅山があり、商社の大番頭だった古河市兵衛が主となり、明治17年(1884年)には産銅高日本一になって古河市兵衛は銅山王となる。だが、足尾銅山の繁栄につれて、川の上流中流下流地域では異常な現象が起きていた。

 

〈老樹古木鬱蒼たりし山林も、たちまちにして兀赭となり、岩石るいるいとして、一樹半枝の目を遮るなきに至れり〉と山は荒れ、洪水の度に鉱毒を含む渡良瀬川の水が田畑をおそった。〈この恐るべき多量の毒素を含有せる銅屑、鉱石及び坑口より流れ出づる毒水等は、澗谷を埋め、渓流に注ぎて、以て直ちに渡良瀬川に奔下し去れり。〉と書かれる状況であった。この洪水はしばしば起こり、〈堤塘を決潰して両岸に氾濫し、田圃をして一面の毒海となし〉となったので、この決壊を防ぐことを口実に、後に政府が谷中村の農民を強制退去させ、谷中村が滅亡するに至った。

 

足尾銅山が排出する煙や排水にふくまれるのは、高濃度硫化物、重金属、硫黄酸化物などであり、いずれも有毒物質である。1880年代から見られ始めた鉱害に、渡良瀬川流域の住民は、政府に度々抗議しているが、その被害村民の側に立ったのが田中正造である。

 

明治22年(1889年)帝国憲法が発布され、翌年、田中正造は50歳で衆議院議員となった。その年、鉱毒を含んだ大洪水が襲い、水がひいたあとに稲の全滅を見た。その原因は、足尾銅山の硫酸銅毒ではないかと察知した流域の農民が、「社会益をするもの」として 製銅所採掘の停止を求めたが、これは画期的な要求であった。

 

政治家となった田中正造は、一人の人間「下野の百姓」として、鉱毒に苦しむ農民と共に、今日でも問題である利優先による自然破壊や苦痛の対策後回しの政府に戦いを始めた。彼は、憲法の実践と憲法の番人である国会に期待していたが、日清・日露戦争が起きたことで鉱毒の被害に耐えざるを得なかった。日清戦争後、度々の洪水で鉱毒被害にあった農民は、政府へ抗議の「押し出し」(今で言うデモ)を行ったが、道中で指導者の逮捕など「凶徒嘨集罪」を掲げた弾圧(川俣事件)を受け、声は届かなかった。

 

田中正造は、国会議員として何回も足尾銅山の鉱毒被害を訴えるが、農商務大臣は「鉱業のために損害を及ぼしたる事実あるを認めず」と答弁している。

 

「亡国にいたるを知らざれば、之れ即ち亡国の儀につき質問書」の質問演説は、今でも目にする程貴重な見解だと思うが、政府は黙殺した。彼は議員を辞職する。そして、明治憲法が国の統治者と定める天皇に向かって、その非を直接訴えることにした。

 

しかし、天皇への直訴状は渡せなかった。アクシデントで失敗したのである。だが、不敬罪にならなかった。困った政府が静かな幕引きを諮るのは、この明治の世だけではない、今も、だ。

 

鉱毒の被害を受け続けた谷中村に、やがて滅亡の日が来る。

 

明治38(1905)日露戦争は日本の勝利で終わり、国中が高揚していた。明治40年(1907年)谷中村に「土地収用法」が適用され、土地物件の買収強制執行がなされた。復旧したはずの堤防がまたしても崩れ、貯水池を作る名目で買収が始まったのだ。反対する者は「国賊」と呼ばれ、やがて廃村の手続きが進んだ。

 

強制執行によって土地をなくし、住み慣れた家屋の破壊を目の当たりにする農民の姿を『谷中村滅亡史』に写し取る。〈側なる竹を手に取り地を叩き、「家を壊すなら俺を殺してから壊せ」と怒号号泣し〉と、次々個人名を挙げながら強制収容による家屋破壊の惨状を描いた。『谷中村滅亡史』は、たちまち発売禁止処分となった。

 

この土地収用問題は、明治33年(1900年)に「旧土地収用法」ができていたが、個人の補償という概念は当時まだ無く、補償と言うよりは、実際の売買よりかなり低い値段で

 

買いたたくということが横行していたようだ。日本初の公害は、また、日本初の土地強制収用による補償問題も含んでいた。

 

谷中村の人々にとっての受難はこれで終わったわけではない。谷中村を去った人々の一部が、北海道サロマベツ原野で開拓移住して新しい労苦を背負っていた。現在、佐呂間町のホームパージに見る資料『もう一つの栃木』には、足尾銅山の鉱毒による村民の離散が先ず載せられ、苦難の開拓が始まったことが記されている。

 

田中正造が亡くなった大正2年(1913年)以後も、作られた貯水池の堤防決壊による汚染水の流入も、何回か起きている。1973年に足尾銅山は閉山したが、2011年の東北地方の震災でも、貯水池が決壊している。

 

〈谷中村の滅亡は、世人に何ものを教えたる乎〉

 

寒村が「滅亡史」の中で問いかける。日本の公害の原点と言われる渡良瀬川の流域で起きたことは、日本近代化の歩みの中でどのように活かされ、解決されてきたか。

 

足尾鉱毒事件以後、公害問題は繰り返され、100年余過ぎた今に至っても、なお、いくつもの事例を挙げることができる。

 

1910年~1970年代前半まで、富山県、三井金属工業の神岡鉱山からのカドミウム汚染は、政府認定の公害第一号である。水田汚染を起こし、周辺で生産された米は汚染され、摂取した人々は健康被害を受けイタイイタイ病と言われている。

 

1956年から顕在化した熊本県水俣市のチッソ水俣工場による有機水銀汚染は、水俣湾の魚類を汚染し、それを食べた人々を苦しめている。

 

1964年新潟県の阿賀野川流域で、有機水銀による健康被害が発生した。新潟水俣病とも言われる。昭和電工鹿瀬工場の廃液による水銀汚染である

 

1960年~1970年代前半にかけて、三重県四日市市の石油化学コンビナートで亜硫酸ガスによる大気汚染が発生し、四日市ぜんそくと呼ばれた。

 

これらは、通常4大公害と呼ばれるが、今は放射能汚染まで含めて様々な公害が発生している。経済政策がらみの猪突猛進とも言える利潤追求の姿だ。

 

また、谷中村を滅亡させた土地の強制収用の手法は、ずっと公共の利益と個人の権利とを天秤にかけて争われてきた。戦後すぐの沖縄での米軍用地の強制接収や、電源開発のダム用地の問題など、この2項対立の歴史は続く。

 

田中正造は言う。「真の文明は、山を荒さず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし。」と。慎みを忘れた主義主張は、語り合うこと、平等に譲りあうこと、自利利他円満の道を探すこと、よりも、競い合うこと、相手を叩くこと、自己の利を優先することを大事にしている。

 

自利ファーストの考え方に、「田中正造」は消してはならない名前である。岡部伊都子は、四方八方に「こだま」を送り、今、見なければならない姿があると伝えて来ている。

 

 

 

 

 

 『こだまを追って』 三行感想 

 

 

 

テーマ「新島襄 キリスト教」  【YA】

 

16世紀半ばにザビエルがキリスト教を伝え、地域の人々が弾圧を受け乍らも何故信仰を捨てないで暮らしたのかと思う。貧しい人々や弱い者を救う教会のやり方も共感があったろうが秀吉の禁教令で外国人宣教師を含め26聖人が磔刑にされ乍らも今現在もしっかりとキリスト教は浸透している。キリスト教の神髄は奉仕と祈りと言われるが、「諸君は、人一人は大切なり」と謳った新島襄は素晴らしい。

 

 

 

テーマ「丸岡秀子」  【M子】

 

女はどう生きるか、どう生きなければならないか、その生きて行く途はそれぞれ異なり

 

それぞれの選択に任されているといえましょう。女の生きて行く道、この問題の根本につきあたると迷うことばかりです。それは男とは違った苦悩なのです。事実「汝は何重もの桎梏を負っている」のですから。女性の諸問題に積極的な活動を展開した評論家。教育、農村、差別、平和問題、女性解放運動の先駆者のひとり。戦前から戦後にかけて農村女性の自立と解放を訴え続けた。今の女性の先駆けとなった人。

 

 

 

テーマ「『抄本 おむすびの味』 を読んで」  【TK】

 

美しい所作、奥ゆかしい、つつましさということばがありますが、本質がわからず日々をこの歳まで過ごしてきました。でもこの本を読んで、よく分かりました。岡部さんの心の機微が、何回も心にひびいてきて、さわやかに勉強になりました。

 

 

 

テーマ「こだまを追う」  【N2】

 

各々の方がこだまを受けた本、作品紹介ですが、見方いろいろで1つの事に対する思いはさまざまと思いました。

 

 

 

テーマ「『風姿抄』を読んで 白洲正子著」  【SM】

 

題名は世阿弥の『風姿家伝』に由来する。白洲正子は4歳から能を習い能舞台に立ったという。追い求めた対象は、能・きもの・骨董・仏像・古寺・世阿弥・明恵上人・西行等々と多岐にわたる。いずれの対象も造詣の深い人の水先案内を受けながら、自分の全身全霊で見極め、直感で自己流の解釈を示す。見えるものから見えない“ほんもの”を究めようとする姿勢が「信仰にも似て美しい」と感じ続けている。これは岡部伊都子も同様である。

 

 

 

テーマ「『きけ わだつみのこえ』等を読んで」  【Y】

 

男達を戦争に追い立てた、加害の女という岡部伊都子さんの言葉にこの書を選んだ。

 

学生時代から徴兵され戦没した若い人達の慟哭を読み、この人達の苦しみの上に打ち立てられた平和を何としても守り続けなければと思った。そのためにも無関心にならないよう、見つめる目をもちたい。 

 

 

 

 

 『こだまを追って』 感想 

 

 

 

◆◆◆ 荒畑寒村『谷中村滅亡史』を読んで 【C】

 

このような機会でもなければ、決して手にすることはないだろうと思い、『生きるこだま』からこだまを追って、この本を選んだ。漢文調の文章はなじみがなく、なかなか読み進むことができなかったが、谷中村の滅亡が、足尾銅山からの鉱毒公害、洪水防止のダム建設のためではではなく、明治時代、世界の経済に追いつこうとする政府と癒着した資本家によるものであることがわかった。度重なる洪水は、銅山の鉱滓の堆積と燃料などの採取のための森林乱伐による自然破壊が原因で起こっており、その洪水のため鉱毒は広がり、肥沃な土地はやせ細り、人々は病気になった。それらをすべて覆い隠そうとするダム建設を強引に進め、長年被害を受けてきた村人達を強引に追い出す政府の強引さ、汚さ、非情さは相当なものである。ここまでやるか、とも思った。

 

最初から最後まで、『谷中村滅亡史』は村人と共に闘ってきた田中正造から聞き、その現場を見た20才の若者である寒村の、村民を踏みつける政府、資本家への怒りと悲しみの叫び声で満ちている。

 

読み終わると、原発再稼働や森友問題などが頭をよぎった。一昔前のような、なじみのない漢文調の文章なのに。政治に関して、諦めモードが私の中にはあるけれど、本当はもっと怒らなければいけないのではないかと思った。

 

 

 

 

 

◆◆◆ 『不死身の特攻兵』 鴻上尚史著 と 『私を最後にするために』 【N2】

 

劇団演出家の鴻上尚史が第二次世界大戦時、特攻として出撃命令を8回(一説には9回とも書かれている)受け8回の生還をたした佐々木友次さんに生前直接取材して書かれた作品です。「命令する者、命令される者、その命令を見て彼らを死に追い立てた者」といろいろと考えさせられます。岡部さんは自分を「加害の女」と表現されているのだが、得てして戦後に戦争を語るときにはロマン漂う作品に流れる危険性があるのではないだろうか。     

 

 

 

死を賭して自ら国を守り抜くという特攻隊の美学。その表現には志願して臨むとあるのだが、これは軍刀を振り回されながら強制された志願であり、自殺命令でしかない。命令された者はただ困ったな、寂しいなとしか思わなかったと佐々木さんは言っている。命令でなく志願であれば何が起ころうと上官の責任は免除されるからです。そして死が無ければ特攻の美学は完成されないというのか、生還を果たした佐々木さんには作戦立案者の建前を守るため、生存していては軍の沽券に係わるというので暗殺命令まで出された。何のための戦争。何のための軍隊。

 

現代でもある期間を置いて神風特別攻撃隊関連の本や映画が製作されるが、ほとんどが命令する側からの、シナリオであり、死を美化しているように思える。敗戦後の上官たちがどのように戦後を生きたかを知ることはなかなかできないのだが、鴻上氏によればこの特攻を組織し、「今後2千万人の日本人を殺す覚悟でこれを特攻として用いれば決して負けはせぬ」と豪語した大西龍治郎中将は54歳で自殺しているがはたしてこの2千万人に自身や家族は含まれているのだろうか。倉澤少尉においては兵士の報復を恐れて80歳まで護身用の銃を手放さなかったという。佐々木さんは自分に暗殺命令まで出し、避難船にも載せないなど自分が戦い抵抗した相手が意外なほどみすぼらしい者だと思い、怒りが急にしぼんでいくのを感じたそうです。

 

「命令する者、命令される、命令を見ていた者」これは先のノーベル平和賞受賞者のナディア・ムラド氏の作品である、『私を最後にするために』とも共通するのだがこれは長くなるのでまた後ほどの感想文で。

 

今まで佐々木氏が沈黙を守っておられたのは事実があまりにも重く話すことが出来なかったからだろう。戦後70年以上過ぎ、差し支える事も人も少なくなったのか方々で、事実を伝えておこうという気運が高まっているのは歴史に連なる者として、ありがたいことである。現代社会でもこの「する者、される者、見ている者」の構図は変わっていないと思う。

 

当事者である「命令する者、命令される者」は事実が重過ぎ感情の整理もつかず、なかなか発表することは難しいのだろう。だが「命令を見ていた者」は傍観者として饒舌にロマンを語るのではないだろうか。それが「生きるこだま」を読んだ時にどことなく納得できない気持ちにさせられる所以ではないかと思う。

 

とにかく今までの特攻作品とは違った観点から書かれたこの本の一読をお奨めします。

 

 

 

 

 

◆◆◆ 学生運動について 【MM】

 今月は先月の課題本『生きるこだま』からそれぞれがテーマを決めて掘り下げ発表す

 

る会で私は学生運動についてまとめたわけだが、タイムリーというか不思議なタイミングでつながりを感じた。

 

 

         ~とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている

 

 

                      男東大どこへ行く~

 

 129日に亡くなった橋本治、『桃尻娘』などで有名な橋本氏であるが、彼は学生運動真っただ中の1968

 

在学していた東大の駒場祭ポスターに「とめてくれるなおっかさん~」のコピーを出した。翌年には東大安田講

 

堂攻防戦があったのである。恥ずかしながら橋本治のことは聞いたことはあっても学生運動とつながるとは知ら

 

なかった。とめてくれるなおっかさんにつづく言葉も今回初めて知った。背中の銀杏…なぜここに唐突に?と思

 

ったら当時人気だった仁侠映画に模してこのコピーをつけたとか。限られたスペースにいかに惹きつける文句を

 

つけるか。若くて鋭い才能を見せつけられた。

 

 学生運動そのものについては別紙にまとめた通りだが、知るにつれてそれを実際体験したり、参加しないにしてもどういう感想を持ったのか、そして学生運動は盛り上がりを見せたものの急速に終息した感じが見えたので、それについても聞きたくて読書会に参加した。

 表立った事件を何件か取り上げたのでどうしても過激な集団活動のイメージがあったが、一言で言い表せるものではなく、学生運動といっても様々なグループや活動があることを知った。前線で行動するグループもいればサークルのような感じもあると聞いて、それを体験していないのが残念だ。言葉では聞いて想像しても体験に勝るものはないと思った。

 わたしは学生活動は政治など国に向かって発信されたのが発端と思っていたがそうではなく、もちろんそのような要素も学生運動のなかには含まれたが出だしはそれぞれの大学の運営に対する不満から出たものであったことを知った。

 私が学生の頃だとどうだっただろう。まず大学に対する不満というものを感じなかった。適切な運営といえばそれまでだが、「ほんとにこれでいいのか?!」この気持ちが大事なのではないかと感じだ。受け身ではなく、これでいいのかを考えることが必要なのではないか。会でも出たが「ボーっと生きてんじゃねーよ!」ですね……。

 それぞれの参加者からそれぞれの学生運動の活動や体験を聞けて良かった。

 みんなの『こだま』も興味深かった。白洲次郎、白洲正子、新島襄あたりが特に興味深かった。今回は1回では足りないくらいのボリュームでしたね。それぞれの『こだま』がまた自分のなかでもこだまして広がるのが読書会の醍醐味です。