2019年12月                           

 

課題本『松陰の本棚 幕末志士たちの読書ネットワーク

                          桐原健真/著 吉川弘文館

 

                 

 

 

ご講師吉川五百枝先生が加療中のため、吉川先生がいらっしゃらない2回目の読書会でした。

 

 

 

 

 

 課題本『 松陰の本棚 』 三行感想 

 

◆【YA】 

 松陰の本に対する凄まじいまでの情熱もさること乍ら、この幕末の頃、一冊の本を手に入れることが困難で時間がかかることが身に染みる。いとも簡単に手にする事が出来る現在は返って本が遠去かっている。松陰蟄居中の4年間に1460冊の読破量、松陰が必要とする人材書物が輩出していたのだろう。本から知識、影響が如何に多大なものか、いつの時代も言えることと思う。松陰も尊王攘夷の国体論から思想の変遷が見えてくる。

 

 

 

【TK】

 久々の難解な本。日本史にうとい私は理解できませんでした。でも読書会のおかげで、ヒントとか深読みの仕方、仲間の大切さを知り、感謝しています。これを踏まえて、もう1回読むと理解できそうです。松陰の読書量と志のパワーに感心いたしました。考える力はやはり読書の賜物です。

 

 

 

◆【KT】

 歴史を知らないので難しく、読みすすむことができにくかった。思想の変化も新論、国体論、水戸学もわからない。37か月で1460冊の『野山獄読書記』に驚いた。松陰は30歳で死罪。

 

 

 

◆【N2】

 

 読書会当日に知った著者の遍歴に文学部コンピュータ室助手とあるのを見て、この作品に数字を使っての

はっきりした資料が載っている理由が判明しました。

 

 数字を見ながらでしたので、作品の理解が深まるようでした。

 

 

 

◆【K子】

 

 まさに活字をスルーしただけでした。悪戦苦闘でした。深読みすれば、とても興味深くなる一冊かも知れませ

ん。松陰(昔の人の)の読書量はすごい!やはり活字の力は捨てがたい。もう一度読み直すという会員が多く

いました。

 

 

 

◆【MM】

 

 読書会に続けて参加していると読みにくい本にあたることがたまにある。今日がそうだった。しかし、面白いと感じた参加者や歴史にくわしい人の感想や説明を聞くうちに、また読みたい、読み直してみたいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 課題本『 松陰の本棚 』 感想 

 

 

◆◆◆【YA】

 

中学、高校で習った吉田松陰に関する記憶。

 

 

先ずは松下村塾。質素で冬場は寒かったであろう。

 

 

ここから明治維新後に活躍する伊藤博文や山県有朋が学んでいた。

 

 

山鹿流兵法の師範。

 

 

幕府大老井伊直弼らによる安政の大獄で処刑。

 

 

処刑された中には頼山陽の三男、頼三樹三郎や橋本佐内が居た。

 

 

最も印象深かったのは、松陰の肖像画が30才で処刑されているのに、とても老けて見え、60代と言っても

 

おかしくなかった。

 

 

処刑された原因も唯、幕府の意向に反発していたという簡単なこと。

 

 

このようなことぐらいの松陰だった。

 

 

 

 

 

松陰は驚異的な読書家だったのだ。

 

 

ペリーの黒船、密航の企ての失敗と、その後の2回に渡る幽閉の4年間に、何と1460冊もの書籍を読破し

 

ている。

 

 

これを几帳面に『野山獄読書記』として残しているのが又凄い。

 

 

この書籍を著者はジャンル別に表にして、どのような推移を辿っているのかを追った。

 

 

松陰は尊王攘夷派、水戸学の権威の会沢正志斎の「新論」を強く求めていたが、本の力は強い。次第に思

 

想や考えが変化していゆく。

 

 

この時代、本の入手が困難な時にどのようにしていたのか。

 

 

蔵書家の岸御園が幅広いネットを持つ西田直養他、沢山の人の名が挙がっていたが、これらの人々を書籍

 

の賃借を通して、同じ思想を持つ同志とのつながりをも作っていくという斬新なやり方をしている。

 

 

 

 

 

ペリーの来航、開国、明治維新へと移りゆく激動の中、開国に反対し不平等な「日米修好通商条約」が幕府

 

大老井伊直弼らによって調印され、実践へと傾いていた松陰は幕府に反発し投獄され、安政の大獄で、志

 

半ばで僅か30才で命を落とした。

 

この時代を生きた松陰をはじめ、本を介してつながりを有した人々、自らの信念に基づき、生命をかけて前

 

に進むのは、とても勇気がいることだ。

 

 

それにしても松陰の読書量は凄い。いくら幽閉の身でも1か月に30冊以上を四年も続ける計算となる。

 

 

「本」は楽しくて面白い。色々なことを知り、細やかではあるが、何か豊かな得をした気分になる。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆【N2】

 

 

 書かれた言葉は一人歩きしてしまう。

 

 

 真意とは関係なく自由に解釈され誤読されることもある。

 

 

 が、新たな生命を与えられる可能性もある。

 

 

 この本は吉田松陰がどのようにして思想を形成していったのかを、松陰が読んだ本を本棚に並べながら明ら

 

 かにしている。

 

 

私が生まれるたかだか百何ほど前のペリー来航以来、日本を取り巻く国際環境の変化に対応する国内情

 

勢の転換を前に、松陰はじめ志士たちはどのように考え行動していったのか。

 

 

三十歳で刑死した松陰は1854年(安政元年)十月からの四年間で全量冊数1460冊の本を読了してい

 

る。当時印刷技術の無かった時代にどのようにしてこれだけの数の本を読むことができたのか。それは書籍

 

を貸借するという方法によって可能となった。貸借を申し出ることで知的な交流が始まり、その交流は思いを

 

同じくする同志という関係となり、尊攘論という思想連帯を経て現実の政治を動かしていった。

 

当時「新論」は著者の匿名性と政治的発言リスク入手困難なレア本ということでますます幕末志士を引きつ

 

けていた。松陰もやっとの事で手に入れ読むことが出来たのだが、しかし新論の中の、五論七篇のうち国体

 

に着目し皇国思想に傾いていった。

 

 

吉田松陰がテキストとして読んだ本は読書記の中に書かれており、松陰の思想形成の軌跡を描き出してい

 

る。

 

 

当時の本は、現代のように簡単に自由に出版できるわけではなく、だからこそ本の貸借で出来たネットワー

 

クは同じ考えを持ったものたちを集め大きな力になったのであろう。

 

江戸へ送られ最後まで読書の人でありえたのも書籍貸借ネットワークがあったおかげで読書を通じての真

 

の繋がりができていたからだと思う。

 

 

弱冠三十歳で刑死した松陰が後の人々に与えた影響の深さを思うとき、この本棚を覗くとその時々の松陰

 

に影響を与えた多くの人々、書物、思考が反映されているのがよくわかる。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆【MM】

 

 『松陰の本棚』…今月の課題本は私には難しい本だった。読書会に参加しているとたまにこういう本にあた

 る。読んでも読んでも頭に入ってこない。興味がわかない。これは困った。読書会ではどんな風に化けるの 

 かと思いながら今月参加した。

 やはり人数がいたら「面白い」という切り口で解説してくれる人がいて「ああ、こういう風に読むのか!」と感心

 した。作者の経歴から理系の視点でこの本は書かれているということ、そう教えてもらうとどうして数字の羅列

 なのかも理解できた。文化的なものを数値化することで見えてくることがある。歴史に詳しい人からの解説や

 感想もとても楽しかった。苦手分野の本は普段は手に取らない。しかし読書会に参加することで自分の引き

 出しが増えること、新しい価値観に触れることができて有意義な時間だった。

 私が思ったのはこの本のタイトルのつけ方がうまいなあ、ということだ。タイトルにひかれて手に取る人が多い

 本だと思う。1回では読みこなせない。図書館では貸出中なので予約してもう一度確認しながら読みたい。

 最終的にはもう一度読んでみたい本になった。読書会で「今日の本は読みづらかったしわかりませんでし

 た」と正直に言ってよかった。0から始まる面白さを今月は体感しました。ありがとうございました。

 

 

 

◆◆◆【SM】

 

 「うわぁ、難解だぁ!」 思わず叫んでしまった。

 

 吉田松陰といえば、松下村塾を開いて明治維新に向けて多くの志士を育てたこと、ペリーの黒船に乗って

 

 密航を企てたとして安政の大獄で刑死したことくらいしか記憶していない。

 

 読み終わってもお手上げ状態の私は、読書会でレクチャーのような解説や幕末の歴史に詳しい話を聴い

 

 て、もう一度読み直してみた。

 

 

 

松陰は1854年末から1857年末までの37か月間に1460冊もの書物を読んでいる。その様子を彼は「首を

 

図書に埋め」と言った。獄中で『野山獄読書記』を記しており、内訳が詳しく分かっている。彼は読書人であ

 

ったが、やがて思想家・実践者として行動していく画期を示すものであった。

 

初め、松陰は後期水戸派の会沢正志斎が著した『新論』から強い影響を受け、日本という自己像を獲得す

 

る。やがて、松陰は尊王論者である宇都宮黙林との激論の結果、「思想上の転回」をもたらし「水戸学」を離

 

れ、「国学」に接近する。国学とは日本の古典を研究する学問で、日本語で「日本」を語ろうとする試みだっ

 

た。松陰がこれだけの書物にあたることができたのは、兄杉梅太郎や友人、蔵書家岸御園、小倉の西田直

 

養他からの借本だった。書物を貸し借りする中で、松陰の周りに志士たちのネットワークができていったこと

 

が大変興味深かった。読み終わって吉田松陰の偉業を、真新しい視点から研究している著者桐原健真の

 

論文を読ませてもらったようで、発想の妙を学んだ。

 

 

課題本から離れるが、何故これだけ多くの志士が松陰の門をたたき教えを乞うたのか。彼から語られる「言

 

葉」に最大の魅力があったのではないかと想い、『新釈 講孟余話 吉田松陰、かくかたりき』吉田松陰著 松浦

 

光修編訳 PHP研究所 を読んでみた。

 

 

  “「攘夷」はあくまでも「不当に侵略してくる野蛮な外国人を打ち払う」という考え方で、 「外国のものは何で

 

   もかんでも排除するなどという、単純で幼稚な考え方ではありません。”

 

 

   “科学は科学として尊重しつつ、私たちは古典から「正しい生き方」を学ぶ、という昔ながらの日本人の「学

 

  びの姿勢」をもう一度取り戻すべきでしょう。”

 

 “大切なことは、私たちが読書や学問をすることによって、現実に起きる無数の事態に対応し、その時のそ

 

  れぞれの対応が正しいかどうか、その善し悪しを詳しく明らかにすることができるような人物になれるかどう

 

  か、ということです。”

 

 これはたまらん!国の存亡が危ぶまれている日本の状況、欧米による世界の植民地化が進む国際状況、

 

 不安だらけの志士たちには松陰の話はさぞ、心強かったことだろう。松陰の本棚を通して、幕末の志士たち

 

 の読書ネットワークが構築され、その一人一人が読書家から思想家へ、そして実践家に至ったことが妙に腑

 

 に落ちた。