2019年2月                                

 

 

課題本『河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙』      

 

        河北新報社/著  文藝春秋

 

 

 

 読書会を終えて 

 

                                                           講師 吉川五百枝

 

 

 

時間は、耐えがたい傷みを心の底に沈めてくれる。時間の持つ優しさのようなものだ ろうか。だがまた、時間は、大切なことを忘却のかなたに連れて行く。時間の冷酷さとで も言うのだろうか。この優しさと冷酷さの中で、東北地方を襲った激震の3月11日が、8年を経過してまた廻ってくる。

 

大切な方を亡くされた人には、たぶん、時間は本来の精確さで動いてはいないのだろうと思うが、その心中は想像するしかない。あの当時、実際に遭遇しなかった地にすむ者には、すべてについての言葉が無い。しかし、実際に遭遇したからといってその時を言葉で語れるかと言われれば多くの人は、不可能だと答えられるに違いない。この本は、それでも、言葉や映像で表現しなければならず、伝えなければならないジャーナリストの宿命を感じさせる。

 

ページは、あの当日の地震発生のときから始められている。あまりの恐怖に「言葉を失った」と言いながら、それを言葉で表す。どこまでも言葉と共に生きている人間の姿を見せつけられた。

 

「情報を共有し、危機を乗り越えよう」大きな被害の中で確認されたこの言葉は、河北新報社だけではなく、東北地方のあらゆるところで言い交わされたことだと思う。人間だけが持つらしい「共有」という言葉が特別な力を持つものに聞こえる。新聞発行のシステムを、今回あらためて知ったが、今何が起きていて、周りはどんな様子なのか、避難しているのは自分たちだけなのか、などという状況が見えない不安を抱える人々に、なんとかして情報を届けようと可能なすべての力を出して動く河北新報社の人たちの使命感がひしひしと伝わってきた。いくら言葉にし、写真を載せて紙面を作っても、実際の地獄と表現された状況は、こんなものではないという焦りもあっただろうと想像しながら本文を 読み進めた。

 

 「自助」「共助」「公助」を主張してきたという河北新報である。身近な被害に右往左往するしかない人々に、共に這いあがろうと呼びかけるには、新聞という器に主張を盛り込んで広く報道し、直接被害のない人たちも支える人になろうと共感してもらえることも大事だ。政府からの「公助」を得るのにも、新聞報道は必要な働きだった。だが、報道とは何なのだろう。一般の第一の目標は、報道中身の信憑性が確保されているかどうかではないかと思う。正確なことを知りたいという読者の希求に応えるため に記者は現地に飛ぶ。身の危険が予測でき、本社への電送が危惧されても、なお現地で動き回る記者達の「記者魂」とでも呼べるような状況がページの中から伝わってくる。

 

 せいいっぱいの取材であろうとも、記者が現地で見たこと聞いたことは、その事態の 一面でしかない。読者に事態を知らせるには、多面的であり、時間の経過に耐えられる構成を必要とする。河北新報にも、それは新聞社としてかけられている期待だった。

 

人として、眼前に広がる悲惨な光景を、言葉に代えなければならない重苦しさの中で書かれたものであっても、編集局という冷静な機能が、新聞社の取るべき姿勢を保とうとすることも、行間に溢れている。それを超えて、原稿を書いた記者の思いと感性を表に 出して訴えてくるのが署名記事だ。客観報道に徹するには酷すぎる現実であったことが、記者の署名でその記事を閉じる文面構成多用にうかがえる。

 

書きたいことがたくさんあっただろう。新聞という行数の限られた中では、とても落とし込めない量の言葉が胸の内を埋めていただろうとこの本を読むと思う。

 

「死者」と「犠牲者」の与える印象の違いについても、配慮とはこういうものかと思った。遠くの人に伝えようとしているのではない。地方新聞である河北新報は、読者の隣人なのだ。客観報道ではないかもしれないが、隣人に「死者」という言葉を突きつけられなかった地元の新聞らしさだと思う。同じように、「福島原発爆発」についても、読者に大きな動揺を呼び込まないように「福島第 1 建屋爆発」という言葉を選んでいる。津波被害の凄惨さと、原発事故がもたらした生活破壊の両方の言葉を、あの地のジャーナリストは今も背負っているのだと思う。

 

一日も休むことなく新聞発行を続けた「河北新報」の名前は、私の耳にも伝わって来 ている。あの凄まじい被災の中で、読者に情報を伝え続けた新聞社としてその名は、一躍有名になった。「自他の生命の重さ」と「記者の使命」という選択に、一人一人の記者が懊悩した中で生まれた無休の新聞発行であったし、輸送も配達もその使命に呼応したものだったのだと、あらためて事の重要さを知った思いがする。

 

今回の読書会でも、空撮のヘリコプターに向かって振られている救助要請の手に、応えることができず引き上げた記者の痛ましい葛藤が取り上げられた。

 

広島県のこの地域からも、被災者救出に職務として派遣されたり、支援ボランティアであったり、子どもたちに本を届けたりと、たくさんの人がそれぞれのできることで東北の地に出かけられた。

 

身近なそれらの人たちの支援報告を聞くのも胸の詰まることだが、傷ついた人々を目の当たりにしつつ帰らねばならなかったボランティアの人たちの苦悩も聞いた。SOSを目にしながら、救いようも無く取材を続けた記者の痛みも同じものだったろう。

 

おもふがごとくたすけ遂ぐること、きはめて在り難し(歎異抄)という、人としての哀しさが満ちた日々だった。

 

それでもみんな、その中でも何をすべきかと一人一人が選択した。どれが正解で、どれが善なのかはわからない。だが、そういう選択の連続が今生なのだ。これまで読んできた数多の文学が、そういう生を象徴して示してきた。『鹿の王』(上橋菜穂子作 角川書店)での最終場面、病毒を持つ獣の群を連れて深い森に消えたヴァンの行為も、この読書会で取り上げた。人が「王」(支配する者ではなく、助ける者)たることの尊さと哀しさ の実像が、被災の地でいくつも見られたことだろうと思う。拾い尽くせぬ実像である故に、文学という、言葉で象徴する方法の試行錯誤がこれからも続くだろう。たとえば『それでも三月はまた』(谷川俊太郎ほか 16 人著 評論社)が、被災の翌年に出版されたように。

 

 

 

 

 『河北新報のいちばん長い日』 三行感想 

 

 

 

◆世界最大級の巨大地震、大津波、追い打ちをかけるように福島原発の放射能汚染。この凄惨、壊滅的状況の中、河北新報の新聞発行に対する使命感がひしひしと伝 わる。又地元新聞社としての立場もあったに違いない。新聞の大きな役目は活字に して記録を残すことにもあり、「新聞製作」「輸送」「配達」の三本柱の存在が彼らの真骨頂だ。協力することの大切さ、想像以上の力が発揮出来ることを学んだ。 【YA】

 

 

 

◆近年この地球上では異常な自然現象や人為的原因によって、人間の社会生活や人命に受ける被害に見舞われてきた。この本は震災下の地元紙の一日も休むことなく発行を続けてきた。読者に新聞を届け、情報を知らせる。テレビラジオでも流せるが活字で消えない情報はありがたいです。地方紙ならではの利点が大いに役だったのです。 【M子】

 

 

 

◆大災害の中で、立場によって違いがよくわかる。新聞社としてのプライドが鼻についたが、河北新報の創業者一族がかなりがんばっていることを知り驚いた。人間は事実を述べることも大切だが、共感することがもっと大切だということを学んだ。 【TK】

 

 

 

◆地方紙のあり方が少しわかった。自らも被災者でありながら、情報を集める記者魂。涙なしには読めない。「新聞製作.輸送.配達」どれが欠けても読者には届かない。  【KT】

 

 

 

◆東北大地震を思いおこした。それぞれの場所、それぞれの職場で、たくさんの方々が使命感を持ち、万難を排し、仕事をやりとげられる姿に感動した。災害はくり返される。私たちは、歴史に学ぶことでこれから起こるであろう災害に対処、対応していかなければ……と思った。 【T】

 

 

 

この本に出合えて本当に良かったと思いました。3月11日の記憶が薄れていく中で再度この時を思い出しました。報道関係者をはじめとして、その他それぞれがプロに徹し、するべき事をするという事に感慨を覚えました。 【N2

 

 

 

◆震災直後から、家族の安否も分からないのに、なんとか新聞を発行しようとする、その新聞マンとしての使命感と熱い想いを感じた。新聞は災害の時こそ求められ、新聞がくることで安心感があるという話は、豪雨災害を体験した身としても実感する。 【Y】

 

 

 

◆新聞とはこんなにも有難いものだと言う事を再認識しました。記者「ダマシイ」に感服です。東北人のやさしさ、シンの強さがよく表現された本です。新聞が来ない日は非日常なのですネ! 【K子】

 

 

 

 

 

 『河北新報のいちばん長い日』 感想 

 

 

 

◆◆◆ 【C】 

 

なかなか最後のページまでたどり着けなかった。読み進むとどうしても当時のことを思い出してしまい、胸が苦しく、涙が止まらないからだ。当時私は広島に住んでいたが、関東出身なので家族、友人の安否やその後の状況が心配で心配で苦しい日々を過ごし、連日、テレビから離れられなかった。津波の恐ろしい映像、燃えさかり、水没する街、逃げる人々・・・多くの命が一瞬で奪われたその映像を、くり返し、くり返し見ていた。

 

この本は、地元に息づく新聞社の、地震当時からの闘いの記録である。 

 

震災当時、命がさらされているのに何が起こっているのかわからないという情報の遮断は、ライフラインの遮断と同様に辛いものだということがよくわかる。先の見えない不安が、どれだけストレスになるのか。それは新聞社に勤めているものでさえ、必死で作り上げた号外を人々に配るまで理解していなかった。また新聞がどのようにして作られるかー限られた時間の中で、新聞がいかに多くの人の手を介して作られ、毎朝届けられるのか。臨場感のある文章が続いていく。 

 

あらためて新聞のあり方、ジャーナリズムのあり方を考えさせられたのは、第7章<あるスクープ写真>の河北新報の対応である。写真は南三陸町の町防災対策庁舎ビルが津波に呑まれる瞬間を連続撮影したもの。屋上に避難した人々が津波に流され、命を 奪われる瞬間の写真だった。「事実を伝えるのが報道の使命」という正論と、それを見た地元の人の衝撃の深さ。掲載するべきか、見送るべきか。報道部長の武田氏と編集局 長の太田氏は散々悩むが、「その写真を地元の人が見たら、多分もたないと思う」という現地取材班記者の即答を聞いて、掲載を見送ることを決める。この迷いが頼もしい。写真は載せるのがセオリーだろう。しかし自分たちの立ち位置はどこなのか、何のための新聞なのかを考えた末の決断なら、それもまたひとつの報道の姿だと思う。 

 

震災1ヶ月後に、新聞社員にアンケートをとったことも、とても興味深かった。震災直後は興奮状態で乗り切っていた人々も、1ヶ月とたてば、疲れもストレスもピークに達していただろう。記録の意味もあったようだが、気持ちを吐き出す場が切実に必要だっただろうと思う。印象的だったのは、踏ん張れない被災者を置き去りにしないでほしいという内容だった。明るい話題や復興にむけた話題の新聞記事に励まされる被災者だけではなく、その記事によって、更に力を落とす読者もいるという現実。前を向きたくても、向けない人がたくさんいる。置き去りにしてはいけない。「寄り添う」と言葉では簡単に言うが、本当は「寄り添う」ことはとてもとても難しい行為なのだとあらためて思う。 

 

自らも被災者である新聞社員たちの当時の痛みの記憶を呼び起こす記録でもあり、 書くことが仕事とはいえ、本書をまとめる作業は苦痛を伴うものだったろうと思う。しかし夢中で過ごした当時を振り返ることは本当に重要なことだ。おそらく また起こる災害に供えて、そして今回の震災で受けたそれぞれの心 のダメージを少しでも回復させるために。

 

あの震災は、一瞬で多くの人の人生を変えた。今日一日、何事もなく無事に生きられたことがどれだけ幸せなことなのかを、誰もが思ったことだろう。

 

 

 

 

 

◆◆◆ 【YA】 

 

二〇十一年三月十一日午後三時前、世界最大級の巨大地震と大津波が東北地方を襲った。黒い海がまるで生き物のように防波堤を乗り越え、家々がぶつかり合い乍ら押し流され、車がオモチャの如く速い勢いで流れる。大津波はずんずんと内陸に押し入り街並みを沈め田畑までにも到達する。この映像を現実とは思えぬくらい唖然としてテレビを眺めていた。八年が経った今でもはっきり思い出す事が出来る。その後間もなく悪夢のような福島原発が爆発し、日本が経験したことの無い放射能汚染が蔓延する。  

 

この最悪の状況の中、地元新聞社河北新報の地震発生からの報道の使命を追う長い日が始まる。地元新聞社としての立場が重圧にもなったに違いない。一一四年途切れることの無い発行を続け、地元に寄り添ってきた新聞社にとって甚大な被害を受け乍らも、社員の報道魂というか、あらゆる手段や支援を受け乍らその日の夕刊を発行したことには感動を覚えた。東北の他新聞社のみならず全国からの新聞社の支援が素晴ら しい。

 

新聞社は色々な部門があり、それぞれの役目を担っている。「新聞製作、輸送、配達」 と三つが揃わないと、私達は新聞を手にとって読むことが出来ない。各々の部門で命の危険も顧みない正に体を張った奮闘には頭が下る。社員の中には沢山の被害者もいる。新聞の最も大切な使命は活字にして事実を記録として残し、後世の指針とすべきものとなる。地震、津波という大自然の脅威、放射能という終りの見えない中、一つのブロック新聞社の果敢で必死の行動がひしひしと伝わる。他社の多くが「死者万単位」という見出しが、河北新報では「犠牲万単位」とある。地元に寄り添う地元新聞社ならではの心使いだろうか。

 

 

 

 

 

◆◆◆ 【R子】 

 

 2011年3月11日午後 2 時46分に起きた東日本大震災。 

 

このことを私は 幼稚園の園児と園外保育から帰りの安芸津フェリーの中のテレビ画面で知りました。 

 

子ども達と一緒に画面を観、巨大な船が津波と一緒に陸に向かって動き、家や車が 次々と流されていて、まるで映画のワンシーンのようでした。 

 

現実として受け止め、どのように子ども達に説明すればよいか言葉が出ず、とても悩んだことを思い出します。 

 

河北新報の方々が自分達も被災しながら、大変な中で号外を出し、翌日からも新聞を発し続けた中で、記者として(人間として)の苦悩、自問を続ける姿に、涙、涙で読みながら感銘を受けると共に社員一同が一丸となって新聞で正しい情報(被災者に寄り添った目線)を伝えることの大切さをこの本で知りました。(p56.p57の読者からの手紙 も良いですね。)

 

大切な一冊になりました。

 

 

 

 

 

◆◆◆ 【MM】 

 

「ちょっとー!今日新聞きとるよー!」

 

昨年7月豪雨から1日だけあいて新聞が届いた日の朝のせりふである。

 経験したことのない雨量だったし、賀茂川も上の方は氾濫していたからまさかこんなに早く新聞が届くとは思っていなかった。驚いたと同時に、大変な時なのに届けてくれてありがとうという気持ちになったことを思い出す。

 

 今月の課題本『河北新報のいちばん長い日』を読んで、「伝えなければ」という記者魂、「読者がいる限り届ける」という配達の人たちの熱意を知った。また記者が書いた記事を構成印刷し、それをとどける配送の人たちの重要性も知った。 

 読んですぐ本に入り込めたのは昨年災害を経験したからだろう。普通のことが普通にできなくなること、そのことを思い知った豪雨だった。

 

 本を読んで初めて知ったのは地元紙同士が協定を結んでいて、なにかあったときはお互いを助けるという取り決めがあったことだ。それから地域に限定されず全国規模で新聞社の援助があったこと。地元中国新聞も河北新報とかかわりがあったんだ、そして中国新聞の援助がユニークでありがたかったものとして紹介されていたことがうれしかった。こういう話を読むと「いいなあ日本」と改めて思う。

 

 本文は新聞記者としての使命と葛藤も描かれており、人間味が伝わってきてよかった。伝えたい、伝えなければという気持ちと最前線にいて助けを求めている人を見ても助けられないという葛藤、写真のように見ただけで真実が伝わる、それは時としては見やすい反面伝わりすぎることがある・・・被災者の気持ちを考えて差し替えられたスクープ写真。私もあの津波にのまれる写真を見たがあれは差し替えて正解だったと思う。その決断をした河北新報だから地元に愛されるのだろう。

 

 河北新報の社員それぞれの震災の克明な記録とその後のアンケート、その後のアンケートに正直な気持ちが書かれていて興味深かった。あの時はああしてよかったのか今でもわからないと書いている人がいてその人はずっとその気持ちを持ちながら仕事をするのだろう。そしてその気持ちを持っているからこそこれからの仕事が(いい方に)変わってくるのではないか、と思った。

 

 伝える立場なのに伝えていいものか迷う・・・このつながりで「私の今年の1冊」が決まった。伝えることは確かに大切だし必要なのだが、周りを見てそれが本当にいま一番することなのか、場合によっては伝えない選択もあるのだということを知った。

 

 

 

 

 

◆◆◆ 【SM】

 

『河北新報のいちばん長い日』。この本の存在は以前から知っていた。だが近年3月には大震災に関する著書を読むことにしているが、選択することはなかった。 しかし今年は課題本になってしまった。それでも1週間前まで本を開けられなかった。

 

 

 

あの時。2011年3月11日金曜日午後2時46分。職場のテレビ放映に立ち尽くす。

 

どす黒い津波が、防潮堤を乗り越え、巨大な船を陸へ陸へと押し流す。

 

街では、家々が津波の勢いでおもちゃ箱のように壊され、次々と建物を襲撃する。

 

「この津波の中に、何人の人が巻き込まれているだろうか。やめて!やめてくれ!」

 

体中に鳥肌が立った。恐かった!哀しかった!悔しかった!

 

翌日、映し出された街は「崩壊」だった。広島の原爆被災写真とよく似ていた。

 

 「東日本大震災」と名付けられた。三陸沖を震源としマグネチュード 9.0 最大震度7

 

遂には福島原子力発電所が爆発した。放射能は拡散された。恐れた通りになった。

 

激震・巨大津波・原発事故・放射能汚染が、大人から子供まで多くの人々の命を奪い、

 

生活を奪い、街並みを故郷を「崩壊」し尽くした。動物たちの命も救えなかった。

 

 

 

「白川以北一山百文」に憤怒し名付けた「河北新報」は、地域に寄り添いながらの報道をしてきた。大震災後、被災しながらも河北新報社は休刊することなく、新聞を製作し続けた。それはプロ意識を越えていた。 考えさせられたのは特に次の3点である。

 

一点目は、河北新報社「新聞製作・輸送・配達」一丸となった「使命感」である。

 

震災発生直後、肉親を失った記者、自らも津波に飲まれ被災した記者や、避難所から出勤しながらも「新聞を作り届ける」という使命に燃えて記事を書き続けた記者。記者を支える各部署・機関の「製作部門」、寸断された交通網に苦慮しながら販売店に届ける「輸送部門」、人数も部数も限られた中で被災した読者に新聞を届ける「配達部門」。この使命感はプロ意識の比ではなく、圧倒されてしまった。

 

二点目は、「使命感」と「倫理観」の狭間での「葛藤」である。  

 

ヘリから被災地を空撮したカメラマンの目に飛び込んできたのは、小学校屋上に白紙を並べて SOS の文字を作り、助けを求める人々。同乗の中日新聞のカメラマンが救助できな

 

いもどかしさを詫びるように、「ごめんなさいね、ごめんなさいね」と涙を流しながらカメラを回し続けていたことを知った時、胸が締め付けられた。西日本豪雨で被災して以来、私はヘリに対して少なからぬ不信感を持っていたのだ。自問自答する「門田勲」の名を覚えた。

 

人命救助を優先するべき時に取材することへの罪悪感と使命感の狭間での葛藤。子供の遺体を目の当たりにしても何もできない無力感と取材を優先しなければならない使命感の狭間での葛藤。崩壊した街並みに対する喪失感と言葉にしなければならない使命感の狭間での葛藤。津波を起こした海への怒りと日々目の当たりにしなければならない現実との葛藤。

 

そして放射能汚染への恐怖・避難とジャーナリストと しての使命感の狭間での葛藤。まさに「生きること」が葛藤だったのだろう。

 

 

 

三点目は、1か月後の「アンケート」と「検証」から 社の未来が見えることである。

 

アンケート項目の一つ一つに社としての叡智が結集されていると感激した。特に「仕事以外のことでも構いません」の一文があることだ。どれだけ高い使命感を 抱く記者であっても、記者の前に人であり、「人」として尊重されていることに感銘する。 中日新聞のカメラマンがつぶやいた独り言「ごめんなさいね」がいまだに耳朶に残る門田勲さんは強烈な自己嫌悪に陥り、今も苦しみながら自問自答を続けているという。それは社内の他の人にも見られ「報道とは何なのか?自問は続く」と締めている。

 

この自問自答こそ、あらゆる職種の模範ではなかろうか。

 

また、とかく人や組織は独善的になりやすいが、河北新報は被災者目線で検証報道を続けている。まだまだ復興までの道のりは長いけど、「再生へ 心ひとつに」と被災者に呼びかけ、共に歩むことを誓っている「河北新報社」。社としての百年後の未来が見えるような気がした。

 

 

 

『河北新報のいちばん長い日』に出会えたことを感謝する。津波に関する文化遺産ではあるまいか。地域の各図書館に、各学校に、百年を越えて置いてほしい本である。