2019年5月                              

 

課題本『狐フェスティバル』

                         瀬尾まいこ/著 全国学校図書館協議会  

 

 

 

 読書会を終えて 

 

                                              講師 吉川五百枝

 

 

 

全国学校図書館協議会が編む「集団読書テキスト」の中から、読者を中学生と想定した一冊。50ページにも満たない作品で、すぐに読めてしまう。せっかくであった作家だから、作者について調べてみるのもおもしろいかなと思った矢先、彼女の『そしてバトンは渡された』が、2019年の本屋大賞を射止めてしまった。

 

課題本に選ぶと、賞を取ったり(イシグロカズオがノーベル賞を受賞したのは私たちが読んだ次の月)、映画化が決定したり、作家が亡くなったり。こういう巡り合わせが、かなり頻繁におきるような気がする。今回はおかげで、瀬尾まいこさんの写真や談話が手近にあって、彼女の存在が遠い話ではなくなった。

 

「小説で難しいことはいいたくない」という心優しい作家さんだ。今回の『狐フェスティバル』も優しい。失敗したり、思うようにならなかったりすることはあるが、問題が一つ山を越して、子どもたちが晴れやかに川に向かって走り出す最後の場面は、安らかだ。

 

「まつり」の話ではあるが、「フェスティバル」という題名になっているのが、まず、作品を軽やかにしている感じだ。「まつり」を背景にする作品は、けっこうな数有ると思うが、そのイメージを思い起こすと、地上に絡めて留めおく何本ものロープに繋がれた重さを背負う。日本語の「まつり」は、神を祀ることから始まるといわれている。長い歴史を持つことが、さまざまな出来事を引き起こしただろうと想像できるし、「まつる」行為に含まれる慰霊の意識は、人間の手に負えないものとの和解や、呪詛からの解放などを含んでいる。そうせずにはおれなかった数々の人間の挫折を、「まつり」の中にみて心重く感じるのかもしれない。

 

その点、「フェスティバル」は、日本語として使うのには親しくない文化だ。

 

「祭り、祭典、催し物」と日本語に訳されても、日常的にカタカナのまま使っている事が多い。外国語として宗教的な祭りであっても、日本の古神道などとはまったく離れているから「催し物」位の感覚で受け止める。「狐まつり」よりも『狐フェスティバル』の方が気楽にあそびに行くことができる。そのかわり、祀られる狐は、『きつねにょうぼう』や『狐笛のかなた』などの姿ではなく、ウクライナ民話の『てぶくろ』に登場する「おしゃれぎつね」や、『ピーターラビット』の「きつねどん」のように洋服が似合いそうだ。

 

 今回の作品は、題名のカタカナがよく効いている。

 

古い風習を持つ村の夏祭り「狐がえり」に、何の抵抗もなく馴染んでいる「僕ら」は、夕方からの練習に毎日汗を流している。

 

「狐がえり」の情景を読むと、私がまだ幼い頃、燃えさかる焼夷弾空襲に追われ逃げ帰った村での数年の暮らしを思い出す。当時、その村に、この「狐がえり」のような行事があり、幼い町帰りの私も加えてもらっていた。「亥の子」とよばれていた。重い石に何本も綱を付け、子どもたちが引っ張りながら村の各家を回ってなにがしかのお菓子にありつくのだ。終戦後すぐのことだから、どんなお菓子があったのだろうか、覚えていない。なつかしい情景として「狐かえり」の部分を読んだ。

 

「亥の子」は平安時代の宮中行事が庶民の間に広まったそうだが、昔も今も、収穫への感謝と、無病息災の願いは変わらないのだろう。最近は、「亥の子」を知らなくても「ハロウィン」は知られているようで、作者が「狐がえり」の説明に〈日本版ハロウィンだ〉と書いていて、日本文化の“グローバル化”がおもしろかった。

 

祭りが祀りを基にしている以上、そこに証明を必要とする科学的思考を持ち込むと疑問が生じる。それを代表すのが、村に転入してきた三崎花子だ。花の東京からの転校生。洗練されたかわいい顔で、手足も長く,紙もさらさらで長い。いなかの風習は「ばかじゃないの」というのだ。クラスの中で一人浮いているのも頷ける。要するに、「僕ら」とは異質なのだ。都会からやって来る人間は〈無添加、無農薬が大好きなくせに、ごみの分別すらできない。田舎暮らしを推奨しつつ、いなかの風習には全く関与したがらない。〉と、「僕ら」は観察している。

 

都会的なものと田舎的なものの共存。作者はこのことを、わかりやすくステレオタイプに描き分けている。〈一人で何でもできると思っている〉都会人と、〈一人ではここでは暮らしていけない〉と思っている「僕ら」田舎人。彼らのであいが具体的に描かれるのが、ナマの鮎のプレゼント事件だ。新鮮でおいしい鮎を贈ったつもりの田舎人に対して、なまの鮎など手にしたこともない都会人。この感覚のズレは、山の中に嫁に来た身の私には体験があってよく解る。しかし、“それがどうした”の世の中でもある。

 

ステレオタイプで比べあっても仕方が無い。人間はありがたいことに様々な体験によってそれぞれに違っている。コンピュータで手に入れる科学的な情報もあるが、コンピュータでは御しきれない森羅万象にかかわって生きているのが人間だ。

 

三崎花子には、「都会人である」だけではすまされない彼女の感性があった。それを理解できる会話の形にして言葉を引き出した「僕」は、「田舎人」であることを利用したわけではない。「僕」は、「僕」の感性で彼女に接した。

 

都会でも田舎でもみんな、自分の周りは、自分とは異質な存在ばかりだ。この作品も、都会人と田舎人が、お互いに理解し合うような話では落ち着かない。人間は、お互いに異質であっても、強力な自然と太刀打ちできるように、さまざまな文化的「装置」を考えだした。生け贄を捧げて祈祷するのも、土地の邪霊のせいにして鎮撫するのも、土地の神に力を与えるのも、一人一人ではどうにもならない自然の猛威に壊されないための自衛の「文化装置」として人を繋いできたのだろう。

 

「フェスティバル」という題名は、転校生のもたらした新しさの象徴のようになっている。それは、古来から日本人が形作ってきた文化的「装置」の様変わりの予言のようだとも思う。「装置」が、「祀り」から「経済」「社会福祉制度」「IT(情報技術)」「AI(人工知能)」などへの変化を現すようになり、人々の感性も変わるだろう。作者は、優しい話を書いたつもりだろうが、易しい現状ではないことを考える。

 

 

 

 

 

 課題本『狐フェスティバル』 三行感想 

 

 

 

◆この短い物語の中には、現在日本の抱えている複雑で難しい問題が含まれているのでは。田舎の過疎化、古くから伝わる重要な伝統行事の継承、移住者の受け入れ等々。田舎の子供達3人と移住者の女の子のやりとりは、ひたむきさ、一生懸命さが伝わりいとおしい。伝統行事は大方自然崇拝が基盤となっており,(神も含まれ?)

 

絶やすことは難しい。色々やり合ってめでたしとなっているが、田舎の生活は困難さが沢山ある。 【YA】

 

 

 

◆大人の絵本 子供の教科書に出てくるようなファンタジー。でも現代の社会問題を扱っている。子供と共に問題を考えるのには 役立つ本だといえる。考えさせられる思考が育てられ、答えを考え続けられる。   【TK】

 

 

 

◆都会から田舎に越してきた中学生三崎花子が伝統行事の「狐がえり」に参加するまでの物語。ストーリーは理解しやすく温かく優しい気持ちになった。 【KT】

 

 

 

◆「狐がえり」が「狐フェスティバル」に変遷したことを考えながら、人間と神との融合として祭りが存在したことを改めて考えていく時間は、愉しいものでした。登場人物が中学生という年代も瀬尾さんの他の作品の年代と同様で楽に読めた。 【E子】

 

 

 

◆五穀豊穣を祈る伝統行事を大切にする田舎へ、移住してきた女の子。都会からの転校生を迎え入れたことで、地域に新しい風が吹いてきた。短い作品に自然の豊かな風景と暮らし、その楽しみ方を知っている者と これから知るであろう者。簡単に読めて、いろいろなエッセンスの籠った作品です。 【N2】

 

 

 

◆今回の課題本は極薄・極小頁です。当たり前ですネ。活字苦手(失礼、これを読む人にはいりませんネ!)な人には入門書です。

 

とある田舎の町に都会から中学3年ぐらいの女の子が移住。その町で行われる「狐がえり」と言う。踊り(祭)に彼女に参加してもらう為に地元の子ども達の様子が描かれています。筋は単純なものなのですが…。地元の風習・生活様式の違い等から考えさせられるものが山積です。読書会のチャームポイント。話は地元の祭などのガールズトークが発展するわ!するわ!狭い狭い範囲でこれだけの差、私にとっては収穫大でした。

 

最後には地方の「祭」なのに、作者は題名に「フェスティバル」と付けました。この違いの言葉の意味を掘り下げました。参加しただけなのに頭の中が少し重くなった様な気がしました。活字の奥に潜むものは凄い! 【K子】

 

 

 

◆短いお話だったけど 出席者の話は盛り上がり とても楽しかった。『狐フェスティバル』もう少し長い話なら 瀬尾まいこの良さが出たのになあと思う。三行感想も感想文、「自分がやらずにだれがやる!」の気持ちで頑張ります。 【MM】

 

 

 

 

 

 課題本『狐フェスティバル』 感想 

 

 

 

◆◆◆ 【C】

 

<こんなことに必死になるのは、ばかばかしいことなのかもしれない。中学生がそんな伝統行事に踊らされるのは、妙なことなのかもしれない。 でも、僕はそういう環境で育った>

 

中学生の川居和和也くんの真剣さが、どうにもこうにもほほえましくて、読んでいて頰がゆるんだ。狐がえりに参加しようとしない転校生の三崎花子がその気になるように、鮎をプレゼントしようなんて、まるでミヤコとサナオと和也こそ狐みたいだ。

 

和也の素敵なところは、花子の勧誘を大人に泣きつかないことだと思う。そしておそらく周囲の大人もうすうす気づいてはいるはずだが、和也に手を差しのべようとはしない。ここは<そういう環境>なのだ。そこがいいなぁと思う。(単に余裕がないだけかもしれないけれど)。これは子どもが責任持ってやる仕事なのだ。隣組のメンバーは大人だけではなく、子どもも役割を担っている。(途中、三崎の母親に花子の参加を促すよう頼むことはあったが、それは真剣さ故の行為だ)。

 

花子は言う。

 

「だいたい、何のためにそんな妙なことしなくちゃいけないの?」

 

それに対する和也の答えは曖昧だ。

 

「五穀豊穣のため」

 

「僕らが踊りながら各家を回ったら、みんなが幸せになるねん」

 

「ばからしくったって、それがここの伝統や」

 

まるで今の社会の塊のような花子は言う。

 

「そんなの現代社会のニーズに合っていないって。どう考えたって、夜中に他人の家に行くなんて危険よ」

 

花子が言うことは、もっともなのかもしれない。でも読んでいると、どうしても<こんなことに必死になるのは、ばかばかしいことなのかもしれない>と言う和也に肩入れしたくなる。  <現代社会のニーズに合っていない>、だからどうした。今の社会で無駄と呼ばれる行為の中に、人が日々を生き抜いていくのに大切なものがあるんじゃないか?と思ってしまう。損得やニーズという言葉に惑わされてる気がしてならない。大人のそんなつまらない考えに、子どもを巻き込まないでほしい。

 

三崎花子の家は、そのうちきっとこの田舎からも引っ越すのだろう。花子にとってはここも引っ越したいくつかの場所の一つになるだろう。でもおそらく、和也の勧誘の煩わしさや、狐がえりの踊りのステップ、暗闇の中コソコソ家を回ったドキドキ感、三人で行ってお祓い(川遊び)した時の瀬谷川の美しさ、キラキラ感、冷たさ、気持ちよさは、身体の記憶として深く残っていくだろう。それが花子にとって大切なものになって欲しいと思う。

 

 

 

◆◆◆ 【YA】

 

 過疎が進む田舎に住む中学生の和也、小学生のミヤコとサナオの3人が、古くからの伝統行事「狐がえり」の踊りのメンバーが足りないことから、東京から引越して来た一家の中学生の花子を、何とか誘おうとするやりとりから物語が始まる。

 

 人口減少の進む自治体が移住者を募っている日本の昨今、この物語も、何で引越して来たのと聞きたい一家だが、母親の人間性が楽天的で特出して面白い。

 

 子供たちの誘いのやりとりも田舎の3人のひたむきさと一生懸命さが何と可愛いのだろう。これに反比例して、花子の応答も又面白い。突っぱねて「狐がえり」の踊りを軽く見ているのが、いかにも都会っ子らしい。

 

 古くから切れ目なく為されてきた伝統行事は日本の何処でも、その願いは「五穀豊穣」ではないかと思う。

 

 人が生きてゆく為には先ず最も大切なことは食糧の確保だと思う。

 

 米・麦を主に、粟・稗・豆と続き、その為の天候も大切な祈りの対象となる。外から見ると伝統行事は心に響き素晴らしいものと思う反面、又難しい問題となる。

 

 全国的に過疎化が進み、田舎の暮らしは絆、結びつきが深く、又因習や慣習も多く残り、「個人」が希薄になり易い。

 

 しかしこの子供たちのように大人が守ろうとする伝統行事を素直に受継いで行かねばという姿は爽やかで子供たち万歳といいたい。

 

 知らない土地での伝統行事や身近なものも見るのはとても面白く興味深い。殊に簡素で素朴なものは何とかして継承されていって欲しいと思う。

 

 この物語の「狐がえり」、3人の説得で花子の誘いも成功し、4人で楽しく踊って脚光を浴びて めでたし めでたし。

 

 

 

 

 

◆◆◆ 【N2】

 

 中学生の川居君は本当に良いやつである。 

 

 自分がリーダーを任された狐がえりを何とか成功させたいと、移住してきた三崎花子を

 

仲間に入れたくて、何度でも彼女の家を訪問して説得するのだが、どうも上手くいかない。

 

捕れたての鮎で釣ろうとするのだが、都会っ子の花子には捕れたての鮎の美味しさもありがたさも通じず、ただ気持ちの悪いものでしかなかった。川居君が誘いを断念したところから、花子が自分の事を話し始めるのだが。親の都合で何度もの転校を余儀なくされ、彼女なりに下調べをしたりして転校先での居場所を見つける方法を考えていた。伝統を守る村に生まれた川居君にはあたりまえのことでも都会から来た花子には、理解できないことがたくさんある。

 

 伝統を忠実に守ることと、それに新しい風を吹き込み変えていくことのどちらが良いのかはそれぞれだと思うが、花子にはこれからの田舎の自然の豊かさ、やさしさを見つけていってほしい。狐フェスティバルは花子から見た呼び方で、川居君にはずーっと狐がえりと言ってほしい。いつか花子がこのお祭りは「やっぱり狐がえりよね」という日がくるでしょうか。

 

 

 

◆◆◆ 【MM】

 今月の本は集団読書テキストの『狐フェスティバル』だった。課題本が決まったあと著者が今年の本屋大賞に選ばれ、いま話題の作家なので読むのが楽しみだった。短編ということもあり、この作品だけでは物足りなく、ほかの作品も何冊か読んでみた。

 『狐フェスティバル』は私には少々短くて物足りなかった。都会から越してきた三崎花子を田舎の伝統行事「狐がえり」に誘うのだが花子はつれなく、主人公の僕(和也)は近所の小学生と策を練る。狐がえりに誘うところなどはいろんなエピソードを交えながら話の世界に入っていけたが、花子が狐がえりに参加するのかな、と思ったらいきなり場面が祭り後になっていて「あー、ここから丁寧に書くのが瀬尾まいこなのにー!」と感じてしまった。

 今回の課題本で「物足りなかった、なんだ瀬尾まいこってこんな感じなの」と思われたくないのでぜひほかの本も課題本としてみんなで読んでみたい。

 読書会では物語の短さとは関係なく今月もいろんな話が出て盛り上がった。

 祭りとフェスティバル、言葉ひとつで印象ががらっと変わる。私は今回のタイトル『狐フェスティバル』がどうしてこうなったのかいまいち腑に落ちない。読んだ頃は伝統行事の狐がえりに都会からきた花子が入ることによって新しい風、実際にもダンスのステップを入れて新たな狐がえりになったことで『狐フェスティバル』になったのかと思っていたがなんだかそれだけではないような気がする。ではどうして?と問われてもうまく言葉にできない。なんとなくほかの理由があるような気もするのだが。可能なら作者に一度聞いてみたい。

 

 

 

 

 

◆◆◆ 【SM】

 

「狐がえり」を調べると、現在も日本の数カ所で実施されていることが分かった。その一

 

つには、次のようにあった。

 

京都府南丹市美山町三埜の川谷区で、毎年小正月の夜に行なわれる民俗行事。きつね子と呼ばれる小中学生の男の子たちが、学生帽に黒マント、ゴム長のいでたちで、家内安全や五穀豊穣を祈り、地区内の家々を回る。きつね子は玄関先で舞を行ない、お年玉やお菓子などのご祝儀を貰う。途中で人を見かけた場合は、物陰に隠れることとされている。夜遅くまで地区内を練り歩いたきつね子たちは、宿と言われる民家で一泊し、翌朝4時に宿を出て、親の先導で道中歌を歌って、区の上と下に御幣を奉納する。(後略)

 

 【引用:南丹市総合ガイド「南丹生活」】

 

 

 

伝統行事は、神様に五穀豊穣や大漁、無病息災や家内安全等を祈るという大義名分の下で行われる神事でもあることが多い。また、伝統行事を通してつながる住民の絆を大切にするが、時代に合わぬ封建的な部分等も内包したりする。

 

しかし作者瀬尾まいこは、封建的な部分等は取り上げず、中学3年の川居和也と三崎花子、小学生のミヤコとサナオを主な登場人物として、「狐がえり」を元に話を構想する。

 

都会暮らしの三崎花子が、川居和也達が住む村に引っ越してくる。都会の文化と田舎の文化が衝突する。その交錯する様子を瀬尾は田舎側と都会側から丁寧に書き表す。

 

作者瀬尾の田舎の人から見た移住者観が興味深い。まず、P7<田舎暮らしが都会ではブームらしい>と取り上げる。移住する人は都会の価値観をそのまま田舎に持ち込み、なんとか折り合うだろうと軽く考えるが、田舎は田舎でこれまでの価値観を変えてまで共存しようとはしない。そこで衝突が起こり孤立してしまう。P8<けれど、損失も大きい。都会の人間は、突然やってきては、済ました顔で山を削って家を建てる。……自然は最高だと言いながら、自然をぼこぼこ壊す。……本来あるべき生活だと田舎暮らしを推奨しつつ、田舎の風習にはまったく関与したがらない。本当にあべこべなやつらだ。>移住者に対して、何とも痛烈である。

 

また、田舎は自然の恩恵をたっぷり受けている代わりに自然と闘わなくてはならない。「隣組」を大切にしながら、共助の中で生活が成り立つ。一方都会の人は、田舎の「隣組」の親密な付き合いの実態を知らない。温かい親しみはメディア等で知ってはいるものの、同時に感じる煩わしさを移住して初めて知り、田舎での孤立感はさらに募る。

 

川居和也は自分たちの地区の「狐がえり」を成功させるために、三崎花子に踊りに加わってもらおうと説得を繰り返すが上手くいかず、ミヤコとサナオと一緒に川で悪戦苦闘の結果、田舎の最上の贈り物である「鮎」を八匹も捕り、花子にあげようとするが、花子は中を見たとたん、小さい悲鳴を上げ、鮎の入った袋を地面に落とした。最後には「気持ち悪い」と言ってしまう。

 

困った和也を慰めたのは、和也の姉が持ち出した『都会のねずみと田舎のねずみ』だった。作家瀬尾の解決のさせ方が分かりやすい。そうきたかと思わず微笑んだ。

 

鮎の出来事は、双方に相手を思いやることを促した。和也は花子を想い、花子は和也に自分が感じ続けてきた田舎への想いを口にする。

 

とうとう三崎が練習に参加した。元ダンス部だった三崎が「そうだ!リズムが足りないのよ。踊りだったら、もっとステップとか入れようよ」と言う。「あかん。そんなん伝統の冒涜になる」と和也は断る。和也に比べサナオとミヤコはまだ少ししか伝統を知らないからこそ、花子が言い出したポップな踊りに同意する。しぶしぶ和也は練習に励む。

 

結果、「伝統に新しい風。軽快なステップで盛り上がる狐がえり」と朝刊の地方版に和也たちの写真がでかでかと載った。ここで題材「狐がえり」が、題名『狐フェスティバル』になったのかと感嘆する。

 

ただ、伝統の踊りにステップを取り入れポップなものにしたら、伝統を重んじる村の長老達に受け入れられたかどうか、歳を重ねた私は、和也達のその後を心配する。しかし、瀬尾はそのことには触れない。

 

田舎には、神事である伝統行事が連綿と受け継がれることが多い。長老たちは時として「神事だから、変えてはいけない」と固く言う。若者達はそれを聴いて育つ。しかしその伝統は、時代や世相によって変わって(・・・・)いくものではないだろうか。変える変えないではなく、せめて変わることを感じながら歳を重ねたいものである。

 

瀬尾は最後の部分で、三崎花子に「写真の撮られたってことは、姿を見られたってことでしょう」「たたられるんじゃないの?」と言わせ、川居和也に「お祓いに行こうで」「瀬谷川は何でもクリアにしてくれるねん」と言わせる。途中はドキドキさせておいて、最後はうふっと笑わせてくれる瀬尾の構想に、清々しさを感じた。