2019年7月                              

 

課題本『九十歳。何がめでたい』佐藤愛子/著 小学館

 

 

 読書会を終えて  

 

                                              講師 吉川五百枝

 

 

 

さてさて、「正論」とは 何でありましょうか?

 

「まぁ、佐藤さま。90歳になられまして、こんなに矍鑠として

 

居られるのですもの、“何がめでたい”などとおっしゃらずに、

 

90年も動いてくれている自分の体や、ここまで支えてくれている身近な人達のおもいやり、それに佐藤さまのエネルギー源とも言えそうな作家活動を創りだしている出版社や読者をもらっての90年でございましょ。夏を過ごされる北海道の自然も、買われて維持していらっしゃるのは佐藤さまであっても、草1本ご自分の創られたものではありませんし、よくここまで私の為に条件がそろったものだ、“めでたい 、めでたい”とおっしゃてもいいのではございませんこと?」

 

「正論」とは、こんなところであろうかと思うのだが、「正論」はいくつもあるのが難儀なところだ。もっともこの作者は、「正論」らしきものは歯牙にもかけないタイプらしい。

 

〈この頃この国を、やたらにギスギスして小うるさく、住みにくくいちいちうるさく感じるようになっているのは、何かにつけて雨後の筍のように出てくる「正論」のせいで〉と筆者が自ら「正論」という言葉を使っている。このニュアンスでは、本人にとって「正論」は、筍のようにはえるものらしい。煮て焼いて喰っている。

 

そう言いつつ、〈そう感じるのは私がヤバン人であるためだということがここまで書いてきてよくわかったのである〉と結んで、自分をヤバン人に仕立て、「正論」に花を持たせておいて蹴散らすテにでている。つまり「異論」だの「邪論」だのと打ち立てるというより、現状の怒りや鬱やヤケクソを筆の勢いに任せて、負けじと筍の列に加わっているのだ。

 

週刊誌『女性セブン』に隔週書かれたものを、1冊にまとめてできあがった作品だそうだが、90年生きて来たからこそ受け入れられる危機のくぐり抜け方もオツな味になっているし、市井でウジウジ言ってもはじまらないことでも、なんだか共闘者が颯爽と現れたような快感を醸し出している。

 

身近な「正論」というのは、内心「ウーン?」であっても反論できないし、だいたい表通りを闊歩している。家庭内でも、よくある「ウーン?」だが、「ごもっともでございます」となることが多く、そのくせ「ではありましょうが」というのが、言葉にならずとも必ず伴走している。

 

『女性セブン』という女性向けを意識した雑誌に連載して人気があったということは、この表通りの「正論」に反撃できない日頃の女性の鬱々とした感情の開放に加勢したということになる。世代によって、女性の日常の鬱や怒りは異なるかもしれないが、政治上の「正論」には元気よく反論できても、日常茶飯事はそうも行かないのである。

 

自分に代わって現代文明を批判し、子育てへの老婆心なども加わっていて、溜飲は適当に喉を通過する。「そうだ。そうだ」と声を合わせるのは気分の良いものだ。

 

「答はみつからない」の項で取り上げられている広島県府中町の出来事など、身近な場所のことではあるし、中三に該当する子どもは、何人か顔が浮かぶ。あの事件では多くの人がそれぞれの感慨を持っただろう。その出来事の真実は解らないが、筆者の推測の描写はていねいだ。現実の前には、“正論”的「教育論」より、〈答えはみつからない〉という方が、親心は、慰められる。〈「人間というものは難儀に出来ているものなんですねぇ」〉と嗟嘆されると、肩の力が抜けて楽になるのだ。

 

この作家は、随筆の中で自分を飾らない。と思わせる口調や句読点の付け方を貫いている。その筆法は12ヶ月の間、変わらないのだ。だから、彼女の揺れる感情や、どんな心の波立ちの変化があっただろうかなどと考える隙が生まれない。強く雄々しく、逞しく生きてこられたモデルようで、言われることは「そうでしょうとも。」と納まりやすい。

 

何度か新聞紙上での「人生相談」記事を引用して、回答者になり得ない理由を述べている。たしかに私もそういう相談記事を新聞で読んでいると、こんな質問によくぞ回答が書けるものだと思う事もあるが、小説の一部を切り取ったミニ小説を読む位の想像力が働く。佐藤愛子女史の回答を読むと、投稿した本人以外は、「感想が正直ですね。そうですとも」と共鳴する部分が多い。彼女の回答ぶりは、外野席に居る元気な人向きだ。投稿するほど悩んでいる本人は霧の中だろうから、〈失意の時が来ても、めげずに生きて行くぞという覚悟を持て〉と言われても、弱った心では受け取れまいと思う。野生の動物のように、巣穴で丸くなって病や嵐をやり過ごす事しかできない時もあるのだから。

 

元気な人は元気な回答をするものだなと思いつつ、彼女にファンとしてカマボコを贈った人も、入れ歯がはずれても笑い飛ばしているような佐藤愛子女史なみに元気な人だろうと思ったことだ。

 

 しかし、どうあっても老いが忍び寄ってくる。好きな時に生きたり死んだりできるわけではない。愚痴をこぼしていられる間は、まだ老いが遠いかもしれないが、自分の老いが身の回りの人の眉をひそめさせる現実がすぐにやって来る。皆に重宝される長生きなど、誰が自由に操れようか。

 

彼女は「ヤケクソ」という元気を、今はまだ持っているが、〈さからわず怒らず嘆かず、なりゆきに任せるしかないようで。〉と文を結ぶ彼女から、抗えない嘆きが聞こえる。

 

自分の思うようにならないことを「苦」と名付けるのだが、「老」も「生老病死」という四苦の中にちゃんと数えてある。「老苦」の前にあっては「正論」も「悟り」も萎えてしまう。「老残の悪夢」という題を付ける彼女は、〈「...もう知らん!勝手にせえ!」〉と吠えるしかない。

 

我が人生の先輩よ。元気に吠えまくって、その時が来たら死にましょう。

 

老いて空しく生きながらえる(広辞苑の意味)という「老残」の身であろうとも、

 

〈ものいわぬ婆ァとなりて 春暮るる〉わけにはいかぬ佐藤愛子女史でしょう。

 

「まだまだみておれ 秋の陣建て」。こういう下の句などを付けてさしあげたいのですがいかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 課題本『九十歳。何がめでたい』 三行感想 

 

 

 

◆2,3年前、新聞の広告欄でこの本の紹介があった。寸評は殆ど豪快、面白い、楽しかったと。実際読んでみて、その通りだと思う。92歳で本を出版する気力は尊敬。長い人生でそれぞれの場面で自分らしく対応出来るのは努力も知識も必要。彼女の生きる旺盛力は真似出来ない。 【YA】

 

 

 

◆さばさばしてイノシシのような佐藤さん。日々感じる出来事、ドロボーに入られた所が小説のようでおもしろかった。自分はだまされても、人をだましていないとおっしゃっている所がこの年代の人らしい。 【TK】

 

 

 

◆読みやすく面白かった。

 

・人生相談の回答についても興味深かった。・テレビのリモコン チョコチョコ 4500円では「老残」を共感。・犬のハナのグチャグチャ飯にもホロリ。・「のんびり」過ごそうと思っていたが、明日からも何か見つけて頑張ろうと思った。元気が出た。 【KT】

 

 

 

◆痛快なペンの愛子節でした。「九十歳。」の句点の意味を考えます。「自分の事は、自分で責任を持つこと」と言い放つ佐藤愛子に学んでいきます。 【E子】

 

 

 

◆90歳でもいろいろなことに興味を持ち、それについて前向きに考えている佐藤さんは素晴らしいなと思った。「おしまいの言葉」の中に書かれているように、いくつになっても社会とのつながりが大切で、他者から認められることが、心と体の意欲や元気に結びついているのだと思う。 【T】

 

 

 

◆愛子さん大丈夫です。九十歳でなく七十近い私でも同じ感覚と思い、ホットしました。

 

世の中四角四面に真面目に考えるばかりでなく、少々馬鹿っぽく、ずれて楽しい方がホッとゆとりのある生活ができるとつくづく思います。 【N2】

 

 

 

◆エッセー集です。実に29篇からなっています。ショート・ショートなので睡眠薬には不向きです。女傑の冠を持つ作家。グサッ!グス!ときます。「思い出のドロボー」編には彼女の本質が出ていると思います。世の中にこんなにも怒りを持っていることは、いつも(何歳になっても)好奇心(知的)とまっ直ぐに生きているからと思いました。面白いの一語。観点が鋭い。非凡なり。 【K子】

 

 

 

◆さらさら読めて、さらさら流れて行きました(笑)。でもその中に何カ所か響くところがあった。参加者それぞれの意見、私にはそちらの方が興味深かった。今日も楽しかったです! 【MM】

 

 

 

 

 

 課題本『九十歳。何がめでたい』 感想 

 

 

 

◆◆◆ 【C】

 

<人はみな多かれ少なかれ、自分の人生を自分なりに満足いくものに作るために目に見えぬ血を流しているのです>、<強く生きるとは満身創痍になることです>。

 

佐藤氏のエッセイが読者の共感を呼ぶのは、「他人のせいにはしない」清々しいその人生に対する姿勢だと思う。自分で選んできた人生に自分で責任を取る。こう書いてしまえば当たり前のことだとは思うが、佐藤氏の半分くらいしか生きていない私の人生を振り返ってみても、私は悪くない、あの人が悪い、と数々の場面でいかに他人のせいにして逃げてきたか・・・佐藤氏に怒られそうな気がしてならない。

 

自分で選んできた人生に自分で責任を取る。だから当然、孤独でもある。

 

佐藤氏が病院に行って医師に<「老化ですね、だから治らないんですね」というと、「アハハハ」とお医者さんは笑う。私も笑う。「あなたはいつも気持ちが明るい人だからいいですな」「アハハハ」とまた私は笑う。この笑いに籠るいうにいえぬ悲哀を誰が知る。今は死への序曲なのである>

 

老いも引き受けてスッと立っている女性の、背筋の通った後ろ姿が見える。

 

責任を取る、責任を負う。そういう姿勢が今の社会には希薄な気がする。損得でいえば、責任を負うような生き方は、損なのだろうか。考えること、何かを引き受けること、責任を持つこと。それをせずに生きる喜びって、本当にあるのだろうか。

 

 

 

エッセイの中で特に印象に残ったのは、<我ながら不気味な話>である。子どもの声がうるさいと保育園新設を反対することについて、<騒音は生活が平和で豊かで活気が満ちていてこそ生れる音である>といい、<戦争体験者である私は、空襲警報が鳴り響き、町は死んだように鎮り返った恐ろしい静寂を知っている>。

 

戦争をくぐり抜けてきた93才の実感のある重い言葉だ。そして、<町の音はいろいろ入り混っているほうがいい。うるさいくらいの方がいい。それは我々の生活に活気がある証拠だからだ。それに文句をいう人が増えてきているというのは、この国が衰弱に向かう前兆のような気がする>。私たち庶民の生活の中に、時代の先端、その前兆はいつもあるのだと、思わされた。

 

 

 

「怒りは私の元気の素だった」と93才の佐藤氏はいう。そして今も爽快に怒っている。身体は年を取っていろいろと具合の悪いところはあるものの、これだけ世の中に対して怒

 

れるエネルギーがあるということは、やっぱり佐藤氏には当分お迎えは来ないだろうなと私は思う。                          

 

 

 

 

 

◆◆◆ 【N2】

 

愛子さんこの題の後には、きっと「めでたくなんかあるものか!」と続くのでしょうが、私は「じゅうぶんめでたいのですよ。お元気で言いたいことを歯に衣着せず世間に公表されて、且つ著作料も頂けて、経済的にもしっかり自立されて。愛すべき娘の家族と一つ屋根の下に暮し、なんとあっぱれな九十歳と感激です。ホント年の重ね方のお手本です。」と言いたいのです。

 

本の内容にはまだ九十に手の届かない私でも共感することが多々、いえいえほとんど全部でした。うんうん納得!です

 

「こみあげる憤怒の孤独」  なにせ日本ではお若いですねがほめ言葉であるし九十の人に百まで頑張って生きろ、というのも元気づけているのだかどうだか。歳を重ねると周りには同じ時代を乗り越え今を知る人が少なくなるのが当たり前で、当然、あの時はねえーー、なんて、つーかー、で話す相手もいなくなりやはり孤独な時間もあるのでしょう。

 

「日本人総アホ時代」  そうそう本当ね。不必要な進歩は必要ない、身の丈に合った進歩を上手に利用して暮らしたいと同感。

 

「人生相談回答者失格」  私も人生相談欄を時々見てしまうのですがネットでは「釣り」の相談というのもありますが、愛子さんは相談事を真剣真面目に解答しようと奮闘し、最後にこの相談自体が人を釣るためのインチキ相談事だったと知るとまたまた憤慨するのではと心配です。

 

「子供のキモチは」最近何につけても賠償賠償の言葉を聞くのですが、つまり貴方のせいです責任とって下さいということでしょう。子供が縁側から落ちたときのおでこの傷が大人になっても残っている時、あーあの時目を離さなければと悔やむ気持ちはいつまでも消えないものです。では自分の不注意で起こったことに自分が自分で賠償責任を問うのでしょうか?悲しみを何でもかんでもお金に換算するということなのでしょうか。

 

その他、「思い出のドロボー」、「平和の落とし穴」、「答えは見つからない」、等々、大正、昭和、平成,令和と四世代を生き抜いた愛子さんの思うこと感じる事、昔のおおらかな時(おおらかとは人間は苦しい時を忘れてただ自分の覚えていたいことだけを覚えているからそう思うだけかもしれないのですが)を笑いながら腹を立てながら読むにはお勧めの一冊です。

 

 

 

 

 

◆◆◆ 【MM】

 今月の課題本はとにかく爽快!読みやすかった。歯に衣着せぬ物言いだが嫌ではない。こんな元気なおばあさんになりたいものだ…とは正直言って思わないかな(笑)。凡人には半分のパワーでも十分です。

 どれもさらさら読めるのだけど読んだ端からさらさら流れていった。

 読書会でも話に出た、孫とコスプレして年賀状の写真を撮った本を見つけたのでそちらも読んでみた。『孫と私の小さな歴史』である。

 孫と変装して年賀状用の写真を撮るのだが、それが20年も続けば立派な資料である。毎年テーマを決めて服装やメイクを考える。年によってはうつになりかけの時もあるがその年に撮った写真でも佐藤愛子は全力で人を楽しませる。そしてその楽しさのあまりうつからも脱出できたのである。

 佐藤愛子の血を引いた娘と孫の一言にもいちいちユーモアがあり「血は争えないな」と何度も笑った。

 佐藤愛子のあふれるパワーはどこからくるのだろう。

 読書会で出た経歴でもあったが配偶者が作った借金を肩代わりするなどなかなかできないことをやってのけた。筆一本で稼いでいく…覚悟が先なのか生まれ持った才能なのか…。運ではなく自分の努力や才能で不幸をも覆してきたように感じた。

 そんな彼女がエッセイの中で怒る、吠える。しかしほんとうに嫌な感じがしいないのだ。人のせいにしないところが私は好きだった。自分の老いやドジがネタであるのも楽しかった。今の日本人に腹が立った章でも言ったとしても「はー情けない!」。うんうん、そうですよねと思いながら読んだ。

 小説も借りたのでぜひ読んでみたいと思う。

 

 

 

 

 

◆◆◆ 【SM】

 

私は96歳まで生きる予定です。

 

理由は福島原子力発電所の廃炉完了を見届けるためです。でもまだ三十年余りあります。そのころ私は、佐藤愛子さんの様に矍鑠としているでしょうか。

 

 想い起こせば、30代の頃私は早く60歳になりたかったのです。漠然と60歳の「丸くなった私」を想像し悦に入っていました。ところが、60歳を迎えて私は愕然としました。ちっとも丸くなっていないからです。とほほ、こんな筈ではなかったのに……。

 

 『九十歳。…』は、「愉快、痛快、爽快な気分」を存分に味わうことができました。そして私はどのように歳の重ねたらいいのだろうかと考えるようになりました。

 

 まず、「愉快、痛快、爽快な気分」を特に味わったところは、次の通りです。

 

<町の音はいろいろ入り混っている方がいい。うるさいくらいの方がいい。それは我々の生活に活気がある証據だからだ。それに文句をいう人が増えてきているというのは、この国が衰弱に向う前兆のような気がする。> (P56

 

 保育園が新設されることには賛成だが、自宅の近隣に建設されるというので反対運動が起きたという話は、あちこちでニュースになっています。自分の孫は可愛がるけど、他人の子供の声は喧しいというのでしょうか。「他者への思いやり」という言葉は死語になったのでしょうか。除夜の鐘も然り。新しい年を迎え百八つの煩悩を祓うために撞くとされていますが、その音色も喧しいという。日本人としての情緒も「今は昔」なのでしょうか。

 

<司法は人間性を失った。情を捨て、観念のバケモノになった。> (P68

 

「被害を被ったら相手を訴え、責任を明確化し賠償金を受けとる」という構図が定着

 

したような気がします。司法が法律に基づいて、全体ではなくある論点に照らし合わせて善悪をきっちりさせるから、人情は出番がありません。そんな時代になってしまいました。子供は人の情けをどうとらえるのでしょうか。非合理的の極致でしょうか?正論をかざしてあれこれ文句をつける世相に対して佐藤愛子さんの怒気と潔さが溜飲を下げてくれます。

 

 

 

次に、大問題。どのように歳を重ねたらよいのでしょうか。

 

どうあがいても体力は落ち、記憶力は激減し、忍耐力も全滅することでしょう。唯一残るは好奇心かも知れません。憧れる高齢女性として次の女性を紹介します。まず92歳で詩作を始め99歳で『くじけないで』を出版した柴田トヨさんは次の詩を遺しました。

 

「貯金」 

 

  私ね 人から / やさしさを貰ったら / 心に貯金をしておくの 

 

  さびしくなった時は / それを引き出して / 元気になる 

 

  あなたも 今から / 積んでおきなさい / 年金より / いいわよ> 

 

感じるのは「感謝の心」です。

 

次に佐藤初音さん。全国から来る悩み多き人達を「森のイスキア」で迎え、その人達の心に寄り添い最後まで話を聞き、おむすびや旬の物を作ってあげるという活動を50年以上続けているという。悩み多き人達は彼女から生きていく力を得て帰っていくといいます。『いのちの森の台所』で「今の活動はクリスチャンだから行っているということではないですね。毎日、毎日の生活の中から積み重なって、今のような形になっていったんです」「死ぬことは怖くないけど、やっぱり死にたくないです(笑)。明日のことは分からないので、今を生きるということしか考えていない」と著わしています。感じるのは「心遣い」です。

 

還暦をやり過ごし、好きなことだけ楽しいことだけを日々重ねていたら、ストレスのない日々を過ごしていることに気付きました。写真の中の顔が穏やかなのです。結局私は「今、在る」ことを感じながら、周りの人から受けた心遣いに感謝して、好きなことを愉しみ、自我と対峙する日を一日一日重ねていくしかないかなと想い至りました。

 

96歳の私にたずねます。穏やかな顔をしてますか?