2019年9月
課題本『雪のひとひら』
ポール・ギャリコ/著 矢川澄子/訳 新潮文庫
読書会を終えて
講師 吉川五百枝
渡辺淳一の小説に似たタイトルのものがある。ポール・ギャリコの作品とどちらがどちらの題名だったか迷うことがある。渡辺作品が『ひとひらの雪』(1981年)で、ひたすら一組だけの愛と悦楽を追求し、ポール・ギャリコは『雪のひとひら』(1975年)で、数多降る雪の一片の生涯を描く。対照的な世界だが、題名がややこしい。
この2作品に共通するのは、やがて消えていくことを見通しているということだ。生まれたものは、やがて消える。「雪」に託せば、それが当然の帰結である。だから、いずれ消える存在だと認めて、消える所から逆に辿って考えても良いのではないかと思う。終わりから見た過程をほどいてみたいのだ。
今回は、ギャリコについて、消えていく者に消えることをどのように受容させるのか、それをどう描くのかという質問を持って読み返してみた。もちろん、たとえ消えゆく身であっても、それまでの過程が生きることであり、そこにこそ意味があるというのはそうだと想うのだが、進行を逆転させてみたい。
物語の「雪のひとひら」も、様々な苦難に出会うし、それを乗り越えていく勇気も感じられる。だが、そこに働いていたのは、最終行に示されるCome home to meという底意ではなかったかという思いが強いのだ。
ポール・ギャリコは1976年に亡くなっている。私が彼の作品に出会ったのは、1980年代のことだから、すでに亡くなっていたが、邦訳でであう彼は壮年の豊かさと落ち着きを感じさせた。
『さすらいのジェニー』(1983年)『まぼろしのトマシーナ』(1984年)『ほんものの魔法使』(新装版1985年)などは、今も私の書棚で新鮮な顔をして並んでいる。
『雪のひとひら』を矢川澄子は1975年に邦訳した。彼女の翻訳作品は数多く、これまでにであっている本も多い。結婚していた渋澤達彦と別れ、文筆家として自活の道を歩み始めた彼女の実生活を知ると、『雪のひとひら』の「雪」をどんな気持で日本語にされたのか想像してみたくなる。
「渋澤さんがほんとにすきだったのね」と友人に尋ねられ、「そう、結果的にどうであれ、人生の一時期に、しんじつ好きなひとのために生きたいということは、めったにない幸せですね」と答えている。
2002年の彼女の自死は、きっかけがあったにしても、突発的に着想したわけでもないらしい。『雪のひとひら』の原文にある「well done」の思いもあったのではないかと想像するのだ。彼女が「well done」と囁いて欲しかった人は誰であったろうか。
この作品は、女性の一生の物語だと殆どの書評では言われる。そういう観点もあるだろうが、そう読むと、作者の女性観を描いたことになるだろう。では、旅の途中でであう「雨のしずく」は、作者の男性観となるのだろうか。生きることから生まれる疑問には、全く関心が無い男性である。
「雪のひとひら」は、「この身を誰が、どのような目的で創りだしたのか」と問い、その答えは予告される。〈この旅路の果てまで行き着けば、「その人」のことがもっとよくわかってくるのかもしれない〉と、作者は、物語が始まって間もなく、すでに、雪としての旅が終わり、その時に「その人」の確たる存在を知るようになることを明かしている。
「雪のひとひら」の一生の旅が終わるまで、その生涯には何度か死を覚悟することが起きている。そういう究極の危険と恐怖に見舞われた時、〈なぜこんなことになったのか。すべては何をめあてで行われていることなのか〉というこの身を創り出した「その人」への不審や疑問が常に生じている。この疑問は、「雪のひとひら」が、女性でなければならないわけではない。むしろ「雪のひとひら」の問いは、私には、「性」によるのではなく、性別を超えた「人間」としての問いだと感じられる。
共に在ってくれたパートナー「雨のしずく」を失った時も、深い悲しみに襲われながら、〈いずれは取り上げられるものならば、何ゆえに彼はわざわざ彼女にあたえられたのか。夜の間にすみやかに彼を呼びもどしたのは、はたして何者なのか。〉と問う。ここでは、「彼」とか「彼女」とかになっているが、いかにも英語直訳口調っぽい。この問いも、「彼」と「彼女」を逆にしても「人」としてしみじみと問うことだろう。
そう問いながら、〈われとわがいのちをこの世にあらしめたその人のこと、ぜひとおっしゃるならば、お召しに従いますけれど、〉と言う。ゲッセマネで十字架にかけられる前に、「この杯をわたしから取り除いてください。それでも、私の望むことではなく、あなたの望まれることを」と祈られた人の言葉がすぐに思い出された。
「雪のひとひら」は、何者によって慈しみ続けられたのか、その究極の神秘を解き明かすことは無くて終わる。これらの疑問は、一つ一つ明かされる必要はなかった。
旅の終わりに至ったとき聞こえたのは、Well done , Come home to meであったとギャリコは著す。〈ようこそお帰り〉。「雪のひとひら」は、その何者かの一部に帰すことになったのだから、もう問うことはなかったのだ。
我が命をあらしめた「その人」に「ごくろうさまだった。ようこそお帰り」と言ってもらえるような人生を過ごした記録とも取れる。全てを包み込むようなやさしさを感じ、よろこびに満たされた「雪のひとひら」にとって、生まれてきた理由も、悲哀も、「その人」の天地創造の一役を担い、その一部になったという喜びで充分だったのだと推察した。この作品を、聖書の次に大事に思うという人もあるくらいだ。
「その人」を、自分の現実世界として知る読者にとっては、破綻のない美しい筋立てであったかもしれない。だが、「その人」を知らない読者には、ある種の複雑さを伴って“うらやましさ”が残るものでもあった。
汚れたものも真っ白に埋め尽くし、人々から清純の賞賛を浴びる雪も、雪の白さに覆われた“汚れた”もの達に、「すまないねぇ。あなた達を白くしてしまって。でも、やがて雪の私は消えるからね」と囁いているかもしれない。そんな雪は、どこに帰るのだろう。
課題本『雪のひとひら』 三行感想
◆【YA】
作品名を知っているものはあったが、ポール・ギャリコの作品は初めて手にとって読んだ。「SNOWFLAKE」とやさしい響きの雪の結晶のひとひらの生涯を又やさしい言葉で進んでゆく。様々な人々との出会いや自然や出来事との遭遇、生を終えるまでの営みはすべて意味のあるもの。雪のひとひらが命を閉じる時に辿って来た道を振り返った時の心からの思い。人は誰しも生まれたことに意味があり、どんな生き方にも決して無意味なものは無いと確信出来る。
◆【TK】
久々の大人の絵本で、楽しくうきうきしました。そしてキリスト教の神につつまれる物語。そして突然子供ができて家族になるところはユーモアたっぷりで大笑い!最後の「ようこそお帰り」が印象的。
◆【KS】
やさしい、うつくしい本でした。雪の純白な姿が、汚れながら海の中に流れ、また天空の一部へ。人の人生に例えられる。自分の人生を見い出す、見つめなおす事が出来たようです。
◆【KT】
詩的な美しい文章で読みやすかった。女性の一生と思って読んだが、女性と限定しなくてもよいという事もわかった。「ようこそお帰り」と言われるような臨終がむかえられる人は幸せな人。
◆【T】
自分をつくったのは誰か、何故か、何を目当てに……と問いかけながら生きて行く“ひとひら”。彼女は常に誰かに見守られている、気づかれていると感じることで過酷な状況の中でもたくましく生きることができた。見守っている誰かとは神の存在かなとも思えるが、母の愛とかの思いの方が、私にはぴったりくる。
◆【N2】
「he,sheと決めずに読んでよいのではないか」とのお話にびっくり。新たな読み込み方ができるなと 楽しくなりました。
◆【K子】
「雪のひとひら」が主人公の名前です。性別を考えずに読み進めていくのも面白いかも…。解説には女の一生とありますが…広い意味で考えるのも一考かも?文章はとても美しく訳されています。年齢層の低い人も読んでもらうと、又感想も違ってくるかもしれません。
◆ 【MM】
新しい参加者もあり、新鮮な風が吹いた。個人的にはこの本は好みでした。言葉もきれいだし、美しい情景を想像することができた。
課題本『雪のひとひら』 感想
◆◆◆ 【C】
美しい話でした。
時に自分が何者で、何のために生まれてきたのかと思いながらも、目の前の生をただひたすらに懸命に生き、味わい尽くし、最後には大きなものに包まれて、死んでいく、<雪のひとひら>。
<彼女の生涯はつつましいものでした。この身はささやかな雪のひとひらにすぎず、片時もそれ以上のものであったり、それ以上を望んだりしたことはありませんでした>。 そんな生き方ができたら、どんなにいいだろう。毎日不満だらけ、イライラしている私の生き方の、なんと醜いことか。「つつましい」という言葉が、とても新鮮に響いた。雪のひとひらの美しさを感じれば感じるほど、我が身の醜さにがっかりする気持ちになった。
そして<またたき煌めく幾千の天体も、そのひとにとっては、地上に降ったほんの一つぶの結晶やしずくにくらべ、より偉大でもより重要でもないのでした。だれひとり、何ひとつとして無意味なものはありませんでした>。
そんな風に感じられたら、どんなに心安らかだろう。
私にとっては、何だか美しすぎて、目が開けられないほどの眩しいお話しでした。
◆◆◆ 【YA】
自然が創り生み出す造形物で最も小さなものの一つが、雪の結晶ではないかと思う。儚く心もとない存在だ。この雪のひとひらが闇で生まれ落ちてからその生を遂げるまでの旅路がこの物語だ。
この小さな存在がその旅路で様々な人々に出合い、又色々な出来ごとに遭遇し、野原や山や川の自然の美しさに感動し、逆に目をそむけたくなる悲しみや辛さにも耐える。
そしてひとひらにとって最大の喜びは雨のしずくと出会い、子供たちがうまれ共に旅路を過ごすことだったろうと思う。
山あり谷ありの旅の中、ポール・ギャリコのキリスト教精神がしっかり見えてくる。
最大の敵、炎に遭遇した時、雨のしずくが叫ぶ。「全力を尽くせ。いのちがけで行くんだ!」の声を聞いたとき、われとわがいのちを この世にあらしめたそのひとの声が思い出され、その人に向かい、救いを求める。正にキリスト教そのものと思う。
やがて雨のしずくは命果て消え、子供たちもそれぞれの道を選ぶ。雪のひとひらも体力も気持ちも萎え海に辿り着き、命の長くないことを悟り「その終りは果してどうなるのか!又その先はどこへ赴くのか」と。
ポール・ゴーギャンが19世紀末に描いた絵の中の人々や動物たちを思い出す。
「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか」召されるその時「いかなる理由があってこの身は生まれ、地上に送られ、最後は無に帰すべきものを」とひとひらは感慨する。
又すべてのものの造り主であるその人の織りなす美しくも宏大な意匠と納得する。旅路の出合や行動が終始誰に立つものであり、その目的を果す為に必要とされる所に居合わせたと。
これはキリスト教の根本的な教えではないかと思う。
学生時代を修道院で過ごした時、正にシスター達の毎日は奉仕と祈りだったように思う。私物を持たず年間を通して同じ服で奉仕活動に暮れる日々を初めて見る若かった私は、その日その日のシスターたちを眺めていた。
二十数年後に訪ねた時、聖堂の中で、跪き、頭を垂れて祈りを捧げている一人のシスターを目にした時はハッとしたことも思い出す。
人は誰しも意味あるものとして誕生し、誰かが必要としている。
人間として成長し、どんな生き方であろうと無意味な人生は無いのだろうと信じたい。
ならば何処で生まれ、何処に帰するかは知る必要がないかも知れぬ。
最後の言葉「ごくろうさまだった、小さな雪のひとひら。さあ、ようこそお帰り」
その人生を生きたすべての人に当てはまる言葉ではないかと思う。
◆◆◆ 【MM】
今回は課題本を文庫ではなくハードカバーの方で読んだ。きれいな言葉、情景が浮かぶような文章で私は好感を持った。これなら高校生の我が子に薦めてもいいなあと思っていたほどだ。雪がすがたかたちを変えて、楽しい時もあり過酷な環境下に置かれる時期もあり…と人生と重なるような気がした。かといって説教じみてもいないし思春期にこういうのを読んでもいいなあと思いつつ参加した。…が! 読書会に参加してみると知らなかった時代背景などを知ることになりいかに自分が表面的にしか読んでこなかったかを知った。
ポール・ギャリコの『雪のひとひら』は1952年、55歳の時の作品とある。アメリカではどういう時代だったのか。戦後まもなくの頃でありアメリカ一の男性誌になるプレイボーイ誌の創刊が一年後の1953年だった。プレイボーイ誌は成人向け娯楽雑誌でアメリカのセックス観に大きな影響、変化を与えたものである。
そのことから、アメリカの古き良き時代の男性が考える「理想の女性像」が描かれたのではないか、との意見があった。その時に話題に上がったリンドバーグ夫人の『海からの贈りもの』と対比すると違いがわかる、と出たのも興味深かった。『海からの贈りもの』のあらすじをざっと見てみた。たしかに、『雪のひとひら』より生々しそうだ。女性が書いたものだからそれはそうなるかもしれない。
私は今回はこう考えてみた。時代背景など何も知らないで読んでしまった。しかし、それでもいい時があるのかもしれない。なぜなら、知らなかいが故に著者の表現がそのまま自分の中に入ってくるからだ。読み返してみても隠された比喩とかがあるような気もしないし、純粋に「なぜ生まれてきたのか」をいろいろな経験を通じて考え、「私を生み出してくれた主への感謝」などが感じられる。男とか女とかではないもうひとつ大きな括り、人間の人生という観点でみたらいいのかもしれない、という言葉に納得した。
一人で読んでいたら「ああ いい作品だった」と思って終わりなのだが、こうやって毎月参加者と感想を持ち寄ることでいろいろな角度で見られるし、新しい知識や価値観を得られる。年齢層も幅広いのが私にはありがたい。自分がまだまだだなということを毎回感じます。でも、目標が見えることで「追いつきたい、いつかは追い越したい!」と刺激になる。
今回も楽しかったです。ありがとうございました。
◆◆◆ 【TK】
久しぶりに大人の絵本に出会えました。
教会、橇に乗る子供たちの風景を本当に絵本にしたら、楽しい本になるに違いありま
せん。自分を雪に置き換えて人生を描いています。なぜ自分が存在しているのか、何の為に生きているのか、人生の目的について迷っている人が読むと心がリフレッシュされるに違いありません。
あとがき解説にあるとおり、キリスト教に基づいた人生観です。神が地球や人間を造り、人間にどのように生きたら良いかが聖書に神のお手紙が書いてあります。神に人間を造った目的があるように、人間もまた神のご意志に沿った生き方すると幸せになれるのです。
そしてまた、水が川から海そして空へ、そしてまた、雨雪になる循環についても聖書に書いてあります。
アマゾンでこの本を見ていたとき、この本の朗読と音楽のCD
を見つけ、この作者が矢野顕子であると知りびっくりしました。同じ宗教の方であったので感激した点もまた、同じなんだと思いました。後でゆっくり聴いてみたいと思います。
◆◆◆ 【SM】
「雪のひとひら」って何てみやびな語感をかもしだす言葉だろう。さすが矢川澄子さんと、心躍らせて読み進めた。矢川澄子さんは詩人なので無駄な言葉がない。
さっそく本著のテーマが目に飛び込む。
<雪のひとひらは、ひとりごちました。「わたしって、いまはここにいる。けれどいったい、もとはどこにいたのだろう。そして、どんなすがたをしていたのだろう。どこからきて、どこへ行くつもりだろう。このわたしと、あたりいちめんのおびただしい兄弟姉妹たちをつくったのは、はたして何者だろう。そしてまた、なぜそんなことをしたのだろう?」>
読み終えた時、情景描写や心情描写を色彩豊かに限りなく麗しい言葉で紡がれた本作と出会えた歓びより、幾通りにも読み解くことができるが故の、不安の方が大きかった。だからこそ魅惑的な作品でもあった。
言葉だけを追いかければ、主人公の「雪のひとひら」の性を感じることなく読み進めていたが、途中から女性の表現があり、作品全体として「女の一生」と読み取った感があった。だけど作品のニュアンスから、それだけではないような気がしてならなかった。理由は、ポール・ギャリコにとって「そのひと」はイエス・キリストかもしれないが、他の人にとっては「そのひと」を誰と捉えるかによって、「雪のひとひら」を女性とも男性とも人類とも捉えることができるからである。
またテーマは、人類の普遍的な命題でもある。「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」は、フランスの画家ポール・ゴーギャンが1897年から1898年にかけて絵画に表現している。
私も三十代、考え悩んだ記憶がある。
果して私は、何のために生きているのだろうか?
果して私は、何処へ行こうとしているのだろうか?
あれこれと理由を付けようとすれば、その途端に論理が破綻した。明確な回答を得ることはできなかった。還暦を過ぎた私は、「ただ生まれてきて、ただ生き、ただ死ぬだけです」という想いの中に居るつもりである。否、自分の内なる声を聴けてないだけかもしれない。
ポール・ギャリコは作品の最後で、「その人」に「ごくろうさまだった、小さな雪のひとひら。さあ、ようこそお帰り」と語らせている。雪のひとひらは満ち足りた想いの中に居ることだろう。
果てさて、私は「その人」に何と言ってほしいと願っているのだろうか?