2020年10月                           

テーマ「夏目漱石作品,生涯,関連人物」(みんなで学習会)

 

◆『坊ちゃん』  【 KT 】

「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。」ではじまりテンポよく読めた。

幼い頃から両親や兄の愛情には恵まれなかったが奉公人の「清」は可愛いがってくれた。

父親が亡くなり兄からもらった600円で物理学校を卆業し四国の中学校へ新任の数学教師として赴任する。 

学校で教師に渾名をつける。校長は狸、教頭は赤シャツ、英語のうらなり、数学の山嵐、画学の野だいこ…

中学生のいたずら、宿直室でのイナゴ事件、師範学校と中学校の生徒のケンカ。赤シャツの悪だくみ……。

周囲のいろいろ汚いところをみて「清」の気立ての良い優しいところをあらためて感じる坊ちゃん。山嵐と二人 

で赤シャツの不祥事をあばくため監視を続け、芸者遊び帰りの赤シャツと腰巾着の野だいこをつかまえて拳

骨でポカポカとなぐりつける。

すぐに退職届を書き送り東京へ帰った。

天誅を加えたいが学校側は何も変らず困らないだろう事が残念。

「清の事を話すのを忘れていた」から最后までの数行はほのぼのと温かい。

絶対的な信頼と愛情を持ってくれている「清」という安心して帰るところが有ってよかった。

解説で「この小説は1週間から10日間くらいの驚異的なスピードで書かれた」という事にも驚いた。

114年前の作品であるが今でも通じる所があっておもしろかった。

 

 

◆『三四郎』感想文  【 T 】

田舎から上京してきた青年が新しい世界に触れ、驚いたり戸惑ったり感動したりしながら成長していく話。

野々宮さんの、世界に認められている科学研究、広田先生の出世には拘らない独特な人生観や思想に触れ三四郎の世界がだんだんと深まっていく。

この広田先生は魅力的な人で、与次郎いわく 「偉大なる暗闇」だそうだが、彼の偽善家と露悪家のくだりは現代にも通じ興味深かった。

 三四郎は、与次郎・野々宮さん・広田先生たちと交遊を深める一方で都会の美しい女性美禰子に恋をしたが失恋に終わる。

初めて出会った池で、彼女は今まで嗅いでいた白い花を三四郎の前に落としていった。三四郎はこのとき彼女に一目ぼれしたようなのだが彼女も何かビビッとくるものがあったのだろう。

次に、よし子の見舞いに行った病院で、その後広田先生の引越しの手伝いで三度目の出会いをし、親しくなっていく。

若い二人の初々しい関係なんだけど、三四郎は美禰子に振り回されているような感じ。まあ、美禰子は美禰子で一生懸命だったのかもしれないが……。

「ストレイシープ」にしても「わが罪は常にわが前にあり」にしても彼女と三四郎ではその理解度・言葉に込める思いがかけ離れていて、お互いの心が離れ合うところまでいかなかったから美禰子は他の人と結婚したんだと思う。

美禰子の方が精神年齢が上回っているからかな?

 

 

 

◆夏目漱石の気になる作品 『夢十夜』  【 N2 】   

この作品に出会ったのは偶然読書会の帰宅時に車中での楽しみが何かないかと図書館をうろうろしていたときに、朗読ライブラリーで見つけました。

それを読んだ60代の始めから70代に入ろうという今まで、未だに謎多き、はっきりと理解できない作品で、それがまた気になって面白いのです。

第三話は盲目の子供を負って田舎道を辿りつつ、最後に自分の犯した殺人を思い出させられると言う不気味な作品です。漱石の子供時代の生い立ちを彷彿させるような題材です。

石になった子供は漱石自身で、殺したというのは自分を他家に出し見放したことが殺したということと同じと感じたのでしょうか。薄気味の悪いといえばそれまでですが、なんだか悲しいような気になる作品でした。

第六話は運慶の仁王像の聞いたことのある話なのですが、江戸時代と明治時代との両方を身内に感じる漱石がやはり江戸時代は終わった、もう江戸時代のものは明治の世には産まれないのだということを実感したのでしょう。

第七話は行き先がわからない船の中で西洋文化の中に身を置いたのだがなんとなく居心地が悪い、そこから逃げ出す為に身投げするのだが命を失うのなら、やはり居心地が悪くてもそこにいれば良かったと後悔するが後の祭りという最後にちょっと笑うような、かといって苦しく怖いような作品です。

とにかく第一話から第十話まで十の話が綴られています。時代と題材は江戸、幕末、明治、戦、洋行、等々いろいろですが第十話の豚の意味が本当に、なぜ豚なの、なぜ舐められるのと未だに大きな疑問です。

しかしこの作品を読んでみると今までの漱石作品だけにはない面白さに惹かれます。やっぱり漱石は文豪の名に相応しいとつくづく思いました。

 

 

 

◆『坊ちゃん』  【 K子 】

数ある「漱石」の作品の中でスピード感のある小説(中編)です。

明治の小説は「言文一致体」を工夫したものですが、この作品は全く無視。それにしても主人公の「坊ちゃん」はあまりにも無鉄砲がすぎます。もう少し物事を考えればいいのにと……笑う前に思いました。

 「清」との関係性が私は好きです。

 

  

◆「 苦 」  【 F 】

スマホをいじりながら、こう考えた。

   書けない自分に腹が立つ。布団に入れば朝がくる。明日が来たら〆切だ。兎角感想文を書かなきゃならない。

   ちゃんと書こうと思うと、読み返したくなる。見返しても読みにくいと悟った時、徒こころが生れて、感想文が出来る。

   線香は呑気に燻っている。ときに何時だなと時計を見ると、もう 4時過ぎである。眠くっ て、いけない」余は明らかに何事をも考えておらぬ。寒い。その他には何事をも語らぬ。

     漫然と非人情で読むといい

     ガラガラと開いた所を読むといい

     初から仕舞まで読む必要もない

     わたしにはよくわからないむずかしい

     「草枕」どこを読んでも面白い

 いつしか、うとうと眠くなる。 

 

 

「今月の読書会を終えて」  【 MM 】

先月の夏目漱石『こころ』を読んで、今月は各自が漱石の作品をひとつ読んでくるというのが課題だった。私は『二百十日』を読んでいった。

『二百十日』は短い話で『こころ』とは趣が違って圭さんと碌さんのテンポの良い軽快な会話が好きだと思った。内容は東京から来た圭さんと碌さんが熊本の山に登る前の日のやりとりとその当日、悪天候に見舞われる話である…。簡潔に書くとこれだけなのだが、そこは漱石の読ませる力でぽんぽんぽんと二人のやりとりや宿の人なども出てきて面白く読むことができた。

   私がこれを選んだのは、いや選んだというか結果としてこの話を読むことになったのは読書会でも白状した

 とおり、『草枕』に挫折したからである(笑)。私が買った文庫本『草枕』と一緒に入っていたのが『二百十日』だ 

 った。会が始まる前や始まってからの参加者の話を聞いて、読書会が終わってから「ああ、今日の流れは『草

 枕』を読む、ということなのだな」と思った。みんなに刺激を受けてやる気があるうちに、と再チャレンジした。

 毎日ある程度ページを決めて読むことにした。2度目も本の世界には入り込めず、不思議なほどあっという間に

 眠りに誘われるのである…。そもそも晩に読むというのがいけないのだろうか、と思い朝の細切れの時間に読ん

 でも睡魔にさらわれるのだった…。やはり「辛抱が足りない」。そして先生のおすすめだったCDを借りてきた。

 月末の時点でここです…。

今回の読書会では読書が人生に必要かという深い話にもなった。私は必要と思う。でも必要と思うあまりに読書を義務にすることはないと思う。楽しめればもちろんいいし、空いた時間に手に取る程度でもよい。

最近息子が面白いことを言ってきた。「国語算数理科社会英語で一つ必要ではない教科を選ぶとしたら?あと、一つだけ必要な教科を選ぶとしたら?」と。必要ではない教科は省略するが、必要な教科の息子の答えは「数学」だった。その理由は「心を豊かにしてくれるから」ということだった。

なぜ数学が心を豊かにしてくれると思ったのかというと、「いろいろ考える中でいろいろな視点を与えられるから」だそうだ。「それって『読書』に置き換えられるね!」が私の第一声だ

った。まさに私にとっての読書だ。この話をしたときに思ったのが、それぞれにとっての心を豊かにしてくれるものがあればそれが読書であっても学問であっても美術・音楽など芸術でも、もっといえば何でもよいのではないかということである。

今回の読書会もいろんなことに話が広がり、読書会後もいろいろ考える機会に恵まれてよかった。いつもありがとうございます。

 

 

◆夏目漱石は思っていた以上に「文豪」だった!  【 SM 】

◇「少年時代」(『日本名作選』日本少国民文庫16 山本有三/編 新潮社 昭和11年刊行より)

山本有三監修の『日本名作選』に収められていました。

内容は、少年時代の随筆が二つ。(文末に『硝子戸の中』とありました)

一つは、実の父母を祖父母と想い込んでいる漱石に、夜中下女が本当のことを教えてくれるのですが、漱石は事実を知った驚きよりも下女の「親切」を嬉しく思ったというのです。私だったら事実に相当ショックを受けるだろうに、どうしてだろうかと怪訝に感じていました。

月当番の方々が、当時漱石がおかれていた家庭事情を説明してくださり分かりました。

漱石は両親の晩年になって出来たいわゆる「恥かきっ子」として生まれ、すぐに古道具屋に里子にやられたのですが、小さい籠に入れられて夜店に晒されている漱石を不憫に思い、母親違いの姉が宅に連れ帰りました。しかし姉は父親にひどく怒られたそうです。その後、4歳で養子にやられたのですが、養父母の離婚で実家に帰らされました。実家に帰ったからといって父母に末っ子として甘やかされることも無く、養家にも実家にも彼の居場所は無かったようです。幼少期、無条件に受け止められる「母性」を経験することなく漱石は成長せざるをえなかったのです。読書会で、この経験は、彼の作品に大きく影響を及ぼしただろうと学びました。装丁にまでこだわった『こころ』の表紙に「荀子」(性悪説)の句を載せたことにもつながるのかもしれない、とも。

もう一つは、小学生の頃、仲の好い喜いちゃんから漢学の本を買ってもらえないかとお願いされ、買ってあげた本を、翌日返してくれと言われた。その際、漱石少年は「お金はいらない。本は遣る」と言ったそうです。普通なら本を返してお金を返してもらうでしょうに。漱石の人情において損得を考えず駆け引きをしない、心意気に「ほう!」と感心しました。

この心意気は終生萎えることなく、文学者・哲学者等、様々な知識人が集まる「木曜会」へと受け継がれていったのかもしれません。漱石は少年時代から確固たる自立した考えを持っていたのでしょう。           

◇『硝子戸の中』(新潮社 昭和27年刊行)                        

1915年漱石48歳。書斎の硝子戸から景色を覗きながら、生と死を見つめ過去を回想し綴られた随筆です。内容は生と死についての死生観が底流を流れています。漱石47歳8月に『こころ』を書き上げ、5か月後、朝日新聞に1月から2月まで掲載されたものです。その後自伝的小説『道草』に続きます。

漱石は、自分の体験した話を小説にしてほしいと訪ねてきた女性を送る途中、彼女が「先生に送って頂くのは光栄で御座います」と言ったので、漱石は「本当に光栄と思いますか」と真面目に訪ねました。女は簡単に「思います」とはっきり答えたので、漱石は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と言ったのです。ここに漱石の死生観を見たような気がしました。

漱石は「死は生よりも尊い」ものだと考え、問いは「生か死か」ではなく、受け継がれてきた生に執着しつつ、「どういう風に生きて行くか」だったと言われます。何度も胃潰瘍で吐血するような病にあり、精神的にも不安定な中でも、漱石は「生死」を越えた「生」に執着したことに、胸がじいんとしました。私が漱石と同じような状況に置かれたと想定した時、同じ様な思考や判断や行動はできなかったと思うのです。病弱で胃腸が極端に弱い上に、自尊心が高く自我が強すぎる私は、若い頃自分が思い描く自分になれない葛藤に苛まされ、これ以上生きるのはしんどいと感じた時、「死ねたらどんなに楽だろう」と想ってしまいました。でも留めたのは親の悲しむ顔でした。漱石が女性に「生きるのですよ」と言ったのが、若い頃の私にも言ってくれたような気がして、心がじんわり温かくなりました。

漱石には珍しく家族(両親)の回想がありました。父親に対しては「とくに父からは寧ろ苛酷に取扱われたという記憶がまだ私の頭に残っている」(P89) 母親に対しては「悪戯で強情な私は、決して世間の末ッ子のように母から甘く取扱われなかった。それでも宅中で一番私を可愛がってくれたのは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶のうちには、何時でも籠っている」(P115,6

実父母からの愛情と信頼に、望むように恵まれなかった漱石なのです。各学校で知的には抜きん出ており、漢詩・俳句も達者で、英語も翻訳ができるほど堪能で、絵も描き、落語も好きで、哲学にも明るかったそうです。現代から見ても「天才」としか思えません。だけど幼少年期にいわゆる“母性”に恵まれなかったことで、この世に居場所を見出せず、終には精神病を患ったのではないかと思います。

言い換えると、漱石はいくら心のバランスをとろうとしても、心根が真面目な上に、自分を誤魔化すことも下手で、趣味等に逃げることもできず、バランスをとるのは難儀中の難儀だったのではないでしょうか?

◇夏目漱石と私

漱石との出会いは、中学生の頃読んだ『草枕』だったような記憶があります。

冒頭の「知に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」この言葉を知った時、この人は人の心も、人の世の本質も見抜いている、どのようにして人格が創られたのだろうかと、ずっと興味を抱いていました。

幼少期、無条件に受け止めてもらえる愛を知らずに育った彼は、頭脳明晰で、人の内面を見抜く観察眼も、物事の真理を射抜く真理眼も、世の中の真実を俯瞰的に見抜く審理眼も持ち合わせたにもかかわらず、精神的には不安で、不透明で不愉快な流れの中に生きたのかもしれないと想っています。

1915年(大正3年)11月に学習院大学で行った講演「私の個人主義」についての感想は、紙面の都合上割愛させていただきます。漱石の思想哲学を理解するのに一助になりました。

漱石は、人や人の世へのまなざしを様々な小説、随筆等に著して、登場人物にそれとなく言わせてくれるので、後世の私は恩恵を被っています。読者に対して、苦しみや傷、痛みに満ちたこの世界で未来に向けて生き直したいという気持ちを抱かせてくれる漱石が、日本の明治時代に存在したという「ご縁」に心の底から感謝したいのです。

晩年の漱石は、小さな私(自我)を去り、天(大我・自然)の命ずるままに生きるという「則天去私」の考えに辿り着きました。自己本位の個人主義を徹底した末に行き着いた東洋的な心の在り方でもあったようです。

38歳から49歳のわずか約10年という時間に、あれだけの名作と評される著作を残した「夏目漱石」は、私が今まで感じていた以上に「文豪」でした。