2020年12月                           

課題本『ある葬儀屋の告白』 キャレブ・ワイルド/作 鈴木 晶/訳 

                        飛鳥新社 2018

                                

 

読書会を終えて

講師 吉川 五百枝     

 

Funeral Director という原題の通り、葬儀をディレクトする人のお話ではあるけれど、この本は、職業として葬儀屋であるということと、その仕事に携わる人の内面の問題という二面性をもっています。

葬儀屋さんにおつきあいはありますが、葬儀会場という場だけでのかかわりで、何をしておられるのか、どんな思いを持っておられるのか、そういうことをお話したことがないなぁとこの本を離れて気付きました。

葬儀屋さんのされることの中心に,エンバーミングという遺体の修復や科学的保全の作業が出てきますが、これは日本ではなじみのない言葉でしょう。日本にもエンバーマーは、およそ160人あまりおられるそうですが、日本は、火葬を主とする文化の国なので、土葬文化の外国に比べれば少ないと言われています。著者の体験は、職能的には少し遠い感じがしますが、プロテスタントとして、「死」に向き合う内面は特殊なことではありません。 

お互いにキリスト教徒である遺族の方々への接し方や言葉がけが、キリスト教のものであり、使われる言葉が透明膜で仕切られた向こう側のものの感じがします。それでも、書かれている中心は「死」の話です。

「死」の話は、身の回りのどこかにいつも漂っています。決して無視したり、自分に無縁だと思って居るわけではないのですが、とらえどころがありません。どこから入れば「死」をつかまえられるのかと探したいところですが、命の数ほどの姿をしているだろうと思います。

この本の著者は、嫌々ながら受け継いだ家業ではあっても、葬儀屋の仕事で色々な「死」にであううちに、「人生は短いのだ」と自覚しました。短いからこそ「死」が、生存の意味を深めると感じたようです。

「死」は、自分の死として考えることと、他者の死として出会うことには大きな違いがあるのではないかと思いますが、今回は、「葬儀屋さんの告白」ですから、他者の死から自分の死について教えられる所から出発しています。だから、葬儀屋という仕事は、他人の死と自分の死を結ぶ橋の上に立っているのだろうと思いました。その自と他の橋が、この著者の場合、キリスト教だったわけですが、ただ決まり文句のような天国をかなたに指し示して慰めるのではなく、彼が自分の死の意味として受け入れた精神性を,他者の死にも認め、理解と共感を持って、葬儀全体をディレクトしたのでしょう。死は恐怖では無く崇敬にみちたものであり、生の正常な一部であり、美や善を見せてくれるのだという彼の精神性が、全ての葬儀を司ったのだと思います。

例会で口にされた「死」の中で、もっとも共通した重さを持ったのは、今年の初めから世界的に広がっている新型コロナウイルスによる「死」でした。

新聞紙上に「コロナ死者 急増中」という見出しで大きくスペースを取っている記事を読むと、今月15日時点で国内2715人が亡くなられているそうです。

柳田邦男さんが、今回の出来事をその新聞に書かれていましたが、コロナ死を「さよならのない死」と意味づけられていました。

流行初期に、発症から約二週間で亡くなられた志村けんさんの死は、入院以後あうこともなく、遺骨として箱に納まる姿で帰宅されたのですから、身内の人には、生前最後の「さよなら」は無かったでしょう。

柳田邦男さんの書かれたものには、「生死を二元論的に分けず、死にゆく人と残された家族の双方にとって何が大切なのかという観点が重視されなければならない」という文章もあります。今回の本は、どんな形であっても、さよならを言える設えを用意する葬儀屋さんの話ですから、比べる事もできないのですが、しかし、さよならが言えない突然の死もたくさんあるわけです。葬儀という設定は心を砕いて用意できるけれども、「最後の別れ」は用意できるとは限らない。そこで 柳田さんの言葉があらためて問いかけてくるのです。

「死にゆく人と残された家族の双方にとって大切なことは何か」

そしてそれは、自他を問わずみんなにとって常に問題であるはずなのに、死の別れの時になって、ふっと気付くこと。

私は、「死」の根底に「諸行無常」を置きます。

「諸行無常」は、ポジティブでもネガティブでもない。「全ては、とどまることなく移り変わっていく」という事実は、明るくもなく、暗くもない。言い換えれば、明るくもあり、暗くもある。

ゆく者も残る者も、双方が「死」の下で交差する時空。それが「葬儀」をする意味ではないかと思います。それをどんな場にするか、それまでの双方の生き様が、明るくしたり暗くしたりするのだと思っています。

葬儀が、死者と生者の双方にとって大切な場になるのは、死者の言葉(「ありがとう。あなたもいずれ私と同じように死ぬ。だから…」を聞く者が居り、死者に贈る言葉(「ありがとう。だから…」)を持つ生者が居て、その交差を融かして一つにする静謐な時を持てる事ではないかと思います。

さよならを言えないかもしれない死をかかえている生身としては、Saved My  Lifeを、どのように求めるのか、今回も考えさせられます。

葬儀は、とらわれている過去の形では無く、新しい出会いの形を示す場であれば良いなと思います。それを見守っておられるのがどなたであっても。

この著者の「能動的な回顧は、喪に終わりはないことを教えてくれ、死者を私たちの生の中に蘇らせてくれる」という文章には、私にも重なる思いがあります。キリスト教の方の言葉は、理解しにくいのですが、それでも、いくつも心に沈む言葉に出会うことができました。

 

 

 

課題本『ある葬儀屋の告白』 三行感想

 

◆ 【 YA 】

葬儀を仕事とする人々の精神的、肉体的苛酷な日々。著者も始めの頃は、うつ状態や同情疲労に陥ったとある。「死」を迎えた家族の悲しみや悩みの内情も自ら見て知ることになる。

人生の最後の流れを毎日のように同じ場で過ごす葬儀屋の人々。遺体とは言え、まるで外科医のように体を処理するプロの葬儀屋の眼からは、故人の人生の一片でも垣間見ることが出来るだろうか。

 

◆ 【 KT 】

訳者のあとがきによると、『生と死の問題に正面から取り組んでいる。著者の言いたいことを一言でいえば「死の中に生を見よ」ということだ。』と。

宗教色が強くよくわからない所もあったが……。

主体の死・客体の死のちがいも納得。

キューブラー・ロスの死の受容のプロセスの5段階を思い出した。

 

◆ 【 T 】

死に関わる内容なので宗教的な考えが多く難しかったが、自分の死に方・生き方を考えるきっかけになった。
葬儀をプロに任せっきりにする人が増えたことで死が身近に感じられなくなっているというのはその通りだと思うが、プロに任せることができる現代に生きている私は幸せだと思う。
死にそうなとき病院に行きたいし、死んだらプロに任せたい。
死をネガティブとかポジティブとか考えたことはない。
死は人生の一部分であり自然な現象じゃないかな〜
今日の次が明日で、明日の次が明後日で、そのつながりの中に死ってあるような気がする。
自分の力で死をどうこうはできない。
自分にできることは、今日一日をしっかり生きることじゃないかな。

 

◆ 【 K子 】

読書会は振り幅が広いです。先月は不登校について、今月は死生観について考えさせられ

ました。今、現在の私は自分の死について全くと言っていい程、考えてもいませんでした。

でも葬儀屋を職業とした彼の実際に体験した話を読んで、自分の最期はどうするか?又近親者の死に直面した時の自分は……アメリカと日本の違い、宗教の違い等によって様々とは思いますが、死はひとつです。色々な死に様があるのです。この本に出会って少し先を考えることが出来ました。

 

 

                                                          

課題本『ある葬儀屋の告白』 感想

 

◆ 【 YA 】

  「如何に死のビジネスが私の人生を救ったか」と副題にあるように、正に体験告白のノンフィクションである。アメリカで代々手広く葬儀屋を営む5代目のワイルド、初代から取り扱ってきた葬儀の回数は、気が遠くなるような数字に違いない。キリスト教信者が大多数で占めるアメリカの葬儀、仏教国日本とはかなり違いが感じられる。

先ず、エンバーミングという作業、まるで外科医が行うような仕事。動脈から防腐剤を注入し、その後静脈から血液を抜き……云々、遺体とは言えこのような事までするのかと、本当に驚いた。キリスト教の最後の審判に際して死者の復活の教理を持つ為、キリスト教会の伝統として火葬を避ける。又生前の肉体が失われるのを忌み嫌うとある。それで今でも土葬が多い。土葬で病原菌等を発生させない為にもエンバーミングが必要とか。又国土の広いアメリカ、会葬者の配慮もあるようだ。

 土葬に興味が湧き、検索してみた。キリスト教信者の多いヨーロッパやカナダ等、火葬に移行している所も多いが、土葬も残っている。日本でも北海道を始め、幾つかの県でも、極一部の地域で残っており、奈良県の柳生の里を含むエリアの或る町では100%土葬とか。遺族が竹で仮門を作り、町の衆が土葬の森と呼ばれる場所で穴を掘って埋葬する。この街の人々の思いは、土に還りたいのだと。読み乍ら感動した。

 キャレブ・ワイルドも現在はベテランの域だろうが、初めの頃は、うつ病や同情疲労に陥っている。来る日も来る日も死と向き合う生活は、精神的にも肉体的にも苛酷な作業に違いない。

そんな状態の中、ありとあらゆる形の死に接していくうち、死は絶望や悲しみだけでは無く、当事者の遺族にやさしく寄り添いながら、「何」かを受け取っていく。

体験や経験が、表面的な薄っぺらいものでは無く、生ある者が必ず辿り着く死という究極の時に、キャレブ・ワイルドは人生を恐怖では無く尊いものとして見ているのかと思う。

普段日常では死に想いを馳せることは無い。

人生の決まりごととして、「必ずおわりが来ること」「そのおわりがいつ来るかわからない」「繰り返せない」「代ってもらえない」という四つの事があった。そのとおりだと思う。

キャレブは「死のビジネス」と割り切っているようだが、死を通して人生が何たるかを想い、死に光や希望や美を感じとるようになった。まだまだ私には、この様な感覚になる事も出来ないし、死が自分に一体何をもたらすのかも一切わからない。

キャレブ・ワイルドの感覚は非常に繊細で鋭い。今回の課題本、とても重くのしかかった。

 

 

◆ 【 TK 】

葬儀屋として死というものにどんなポジティブなものが得られるかという本でした。

そもそも宗教と宗派により死という捉え方に違いはある。そして筆者は、仕事にどっぷり浸か

って同情疲労と緊張を感じ、いつも次にすべきことばかり考えてしまっていた。
私達も死に出会って立ち止まって、何かを考えるだろう。
宗教の中で各自神を信じ、神のご意思を全うすれば、死後は神のご計画に入れて貰うことが

できる。
他に感じた事は、悲しんでいる人へは、同情より、共感する方が心を安らかにしてあげられる

事が大切だと思った。そのためには紋切り型の挨拶は無くてもいいこともわかる。黙ったとしても共に感情を過ごす空間が葬儀なのだろう。
 それにしても、儀式とか紋切り型の行為は、日本の文化なのかもしれない。そして、この静け

さの中で、人の心の揺れを安らかに美しくしていこうとしているのかもしれない。
さて、霊性という言葉は、日本の宗教ではあまり出てこない。
聖書の中で、霊性とは神と個人の絆の強さを表していると思う。

神と個人の間が平和で健全なものであればあるほど霊性は強くなっていく。しかし、その前に

個人が神の導きが必要と認め、神と親しくなりたいと望んでいないとありえないものと言える。
最後に思うことは、今コロナの時代にあって、突然会えなくなり最期を迎える事は、別れのつ

らさがいっそう残る。亡くなった本人が、どんな思いでどんな思いを残して逝ったのかをいちばん考えてあげたい。

 

 

◆ 【 N2 】

とても読みにくい作品でした。

宗教の違いと葬儀の仕方が違うからでしょうか。翻訳作品のせいでしょうか。

なくなった方への愛情も、表し方が随分違うものだと感じました。私は自身の両親の死を考える時、作者のいうような愛情の表現ではなかったので、親に対して冷たかったのかなと考えてしまいます。この死者への愛情というのも私のいう愛情と、作者のいう愛情とは違う気がします。

作者は代々葬儀を生業とする家に生まれ、死への恐れと疑問を持ちながらもエンバーミングの技術を身につけ家業を継ぎ、悩み考えながらも最後には死を受け入れ、死を理解し、その先に光を見つけ、誇りを持って、仕事を続けるというものでした。

死には家族の死、知人の死、それほど知らない人の死、そして自分自身の死があります。私が一番怖いと思うのは自身の死です。死後が解らないので不安に思うのでしょう。頭では理解しているようでも、やはり怖い思いがします。

作者は幼い頃から身近に死があったのですが、それは常に他の人の死であり、自身の身内の死もそう多くはないでしょう。しかし日常に死が身近にあるというのはどんなにストレスのかかるものかは想像に難くありません。

作中にエンバーミングが出てくるのですが、アメリカでは99%、日本では1.5%の普及率だそうです。これは国土の広さの、土葬,火葬の違いによるものでしょう。

作品には種々の亡くなり方が出てくるのですが今までそばにいた人が亡くなったからといって即穢れたものとなる訳は無いはずです。

しかし死者を穢れたもの、人目を避けるものと思いがちなのは、近年葬儀を他者に任せる

ようになったせいで、経験しないものや知らないものを怖がるという気持ちなのでしょう。

しばらく前までは身内で湯灌をし、着物を着せて、化粧をし、布団に寝かせ、刃物を置いて亡骸を見守ったものでした。考えると、病院でも患者として来るときは正面玄関から入るのですが、死者として出るときは裏口からと言うのもおかしな気がします。

死を考える年が近づいて来たとき、自然に生かされて自然の中で老い、自然の一部として死

んで、次代に場所を譲るのが普通の事と考え、今の時間を大切にしなければと切に思います。

 

 

◆ 【 MM 】

 作者のキャレブ・ワイルドはアメリカで葬儀屋を営んでいる、三代目だ。彼が仕事を通じて感じたことなどをつ

 

づったブログをまとめたものが今回の課題本だった。

 

 序盤はこの仕事を本格的に始めるまでの経緯から入るが、学生の頃の彼の考え方は宗教(プロテスタント)や

 

死が身近にある価値観の表現があって理解できないところがあった。加えて聞きなれない「エンバーミング(血液

 

と薬液を交換する作業)」という言葉も何回か出てきてひっかかっていた。エンバーミングについては『葬送の仕

 

事師たち』を読むことによって仕事内容も理解できたし、エンバーマーになった人の経緯や思いも知ることがで

 

きて課題本を読む助けになった。

 

 読み進めるにつれてだんだん作者の世界に入って行けるようになった。好感を持ったのは作者が大切な人を

 

亡くした人々に寄り添うように心がけていることだ。仕事としての死とそうでない死はもちろん違う。吉川先生は仕

 

事(他者)の死を「客体の死」、本人の死を「主体の死」と分かり易く言い換えていらっしゃった。葬儀屋としては客

 

体の死と向き合うわけだが、主体の死も無視できない。人が亡くなったとき、周りにいる人のその悲しみやいろん

 

な感情は毎回違う。死を受け入れるのにも時間が必要だ。死に方にもいろいろある。死ぬまでの経緯もさまざま

 

だ。作者は遺族に声をかけて、話ができるときは話を聞いて悲しみと向き合う時間をとってもらっていた。「私のこ

 

とは気にしなくていいです」「泣いてもいいんですよ」など作者の心遣いが出る言葉がみられた。葬儀屋として次

 

の葬儀が詰まっているときなどは時間に追われることもあるだろうが、故人の死と悲しみは関係者のものだから

 

葬儀屋の都合を押し付けることをしないという当たり前だがなかなかできないことをしているところがいいなあと思

 

った。

 

 この本を読んでいてキーワードとして受け取ったのは「寄り添う」「受け入れる」「愛をもつ」。「寄り添う」と「受け

 

入れる」に関しては上記の通りだ。「愛をもつ」は様々なところで見られたが、牧師のひどい説教の章ではいつも

 

愛をもって人と接している作者だからこそその牧師への憤りを書かずにはいられなかったんだろうとも思った。お

 

涙頂戴やいいことばかり書いているのではなくこういう残念なエピソードもあるところに現実味が増した。それか

 

ら、作者が養子を迎える話にも産みの親への愛が感じられた。

 

 今回の課題本は私の好きな本のうちの一冊になった。海外の作品は宗教観が根底にあるものがあってすぐに

 

は理解できないこともあるが慣れない価値観や言葉を知るために他の本を読んだりして世界が広がるのが好き

 

だ。読書会でも話にでたが、みんなと意見を交換し、いろいろな話をしながら「心のエネルギー」が満たされてい

 

くのを感じる。今年はコロナの影響で多くの集まりが中止になったが、この素敵な読書会が月1回持てることに本

 

当に感謝です。