2020年7月                           

課題本『原爆 広島を復興させた人びと石井光太/著 集英社

 

                    読書会を終えて 

               講師 吉川 五百枝

耳を澄まし、心を澄ませて、ひたすら聞いていく本。

原爆は、人間の犯した過ちだ。その日その時そこに居なかった私は、「原爆、被爆」の文字を見ると、口をつぐみ、聴覚をしゃんとさせる。「どんなことを伝えたいのですか?」と。

広島に関わる人と、遠くに身を置く人とでは、「原爆」という言葉への反応が違うと言われる。私は、広島に居るおかげで、被爆の苦しみを本当に経験した人、幼い時の記憶として聞いてきた人、文字や絵で書き残した人、そういう人達に出会うことが多い。広島で、どれほど痛ましい情景が繰り広げられていたか、随分教えて貰った。そして 同時に、それらのお話の背景に、いつも、戦争によって、海で、密林で、荒野で、街中で、なにも言い残せずに命終わった人達のことが浮かんで来る。広島の復興が、目に見える賑やかさや、物的豊かさを取り戻すことだけで語られるなら、何か忘れ物をしているように思う。

この本の表紙は「原爆」の文字が中央に大きく書かれ、「広島を復興させた人びと」の文字が小さい。実は、「復興させた人びと」のことが殆どの紙数を占めているにもかかわらず、である。制作の意図を私の想いに引き寄せて、この表紙を賛同の気持で見た。

恐怖、事実、知的憤り、警告、平和の希求。それらの精神をふまえ、「75年は草木一本も生えない」と言われた原爆の放射能汚染から生まれ変わって、平和都市を目指す歩みが記されている。この本に名前を並べられた4人の代表者の足跡を語りながら、そこに繋がる多くの人の平和への希求が読み取れる。

 

長岡省吾

〈売って食べ物に変える事ができる品物を追い求めるかわりに、こんなものにかかりきりになっているということで嘲笑する者がいるなら、勝手に嘲笑するがいい。しかし、後世に広島の犠牲がどんなものであったかをまざまざとわからせるのは、だれかがしなければならない仕事なのだ。すくなくともだれかが、人間の歴史のこのどん底を、良心のない人びとや空想力の乏しい人びとの眼前に警告としてよみがえらせなくてはならないのだ。〉

世間的に顕彰されることのなかったこの原爆資料館初代館長は、原爆の事実を語る資料収集に明け暮れる日々を送る。その個人生活も次第に明かされ、親しみを帯びて知られるようになってきた。〈本物の資料こそ原爆の真の恐ろしさを伝えるものだ〉という信念が、現在の原爆資料館を出発させた。

浜井信三

〈たまたま自分は偶然にも生きながらえることができた。だが、無念にも死んでいった者たちの中には公務員としても自分よりはるかにすぐれていて、市の復興に多大な貢献をしたであろう人物もいた。広島の復興のために自らの人生を捧げるのが、生き残った自分の責務ではないだろうか。〉

広島市長として復興都市計画を立て、〈世界がふたたび血迷った野望を持ち、戦争手段に訴えることのないように〉と、広島を世界平和のシンボルにしようと願った。平和公園の慰霊碑に刻まれた「過ちはくりかえしませぬから」のことばは、広島市民、広島県人であると同時に、世界市民であると語っている。

丹下健三

〈楽しい高校生活を送り、父母をほぼ同時に失ったその時に、大難を受けた広島。なにか大いなる因縁というものを感ぜざるを得なかった。〉

平和を願い、また慰霊の場として原爆資料館の建築や平和公園の実現に並々ならぬ思いを寄せた。哀しみや願い、なんとか一命をとりとめた人たちが差し出した記憶や後悔、供養の思いの染み込んだ収蔵品は、この悲劇が伝えられることを願っている。

高橋昭博

〈被爆者こそが、核に対する反対の声を上げなければならない。〉

中学生の時被爆し、重い身体障害と傷痕を負いながら、世間的には被爆者であることの謂われ無き冷たい目に曝される。〈級友たちの死を犬死ににしないためにも、すべき努力はしなければ。〉

核爆弾の威力が増大し、1954年ビキニ環礁で久保山愛吉さんが被爆した。その時の被爆者の〈「原水爆の被害者は、俺たちだけでたくさんだ。俺たちで終わりにしてもらいたい」という叫び〉を拡声するように原水爆禁止運動に取り組んだ。〈原水禁運動は、イデオロギーに左右されるものではなく、広範な国民を結集できる運動でなければならない。〉

血の繋がるわが子にであう縁はなかったが、原子力に対する絶対的な不信感をみなぎらせて〈新しい時代を担う若者に、原爆のことを教えなければ、絶対に世界は平和にならないんじゃ〉。と、平和を語り継ぐことに、血の繋がりの有無に関係なく、反核を訴えてきた。

1957年東海村原子炉の臨界実験開始。日本でもついに、原子力の平和利用という大看板が掲げられた。原子力発電という果実を約束して。だが、この果実は、人間の制御しかねる方法だということが露呈している。

 

 昨日、広島市に出かけた。JRから市電に乗り継ぐときは、いつでも「この土の下には、無言の叫びがあるのだ」と頭を下げる。その上を歩いているのだ。原爆ドームが保存されようと、いつか崩れようと、歴史が書き残されている限り、過ちは繰り返しませんから、と残していこう。広島駅南口に、大きなパネル数枚をならべて、86日に始まる広島復興の年代記が展示されていた。86日から91日までの間に、広島の人々は、なんとたくさんの事績を残されたことか。原爆を落とされてまだ間もないのに、電車が走り、新聞が発行されている。肉親や友人知人の姿を求めて右往左往するそのままで「復興させた人びと」が確かにおられたのだ。

「生きて伝えねばならない、生き残ったのだから。」そんな声がパネルから聞こえた。私は、もう一度その前で頭を下げた。

 

 

課題本『原爆 広島を復興させた人びと』 三行感想

◆ 【 YA 】

初めて知ることの多い本だった。先ず資料館の初代館長長岡省吾の名すら知らなかった。

彼を中心に彼の人生を深堀した内容だ。人類史上初めての原子爆弾投下直後の広島の街は地獄以

上のものだったに違いない。そこから元の姿に戻すのでは無く、未来に希望を求めるべく広島の復興

に命を削り人生を捧げた市井の人々が沢山いたのだ。パイプのつながりを持つ浜井信三、丹下健三、

高橋昭博等の功績がクローズアップされてはいるが、名も無き市井の人々の働きを忘れてはいけな

い。歴史上に起きた汚点を風化させず記憶にとどめることが大切。

 

◆ 【 R子 】

本書は、地質学研究の長岡省吾をはじめ広島をどのような思いでどう広島に関わりながら復興にたず

さわっていったのか、長い道のりが記されている。11人が自分の生き方にぶれないで追求していく姿

は今の時代の人々に訴えるものがしっかりあったと感じる。

戦争という言葉が風化しないための自分でありたい。本書の中に(P192)銀色のきれいなお弁当箱は親が息子のために8月6日に毎年磨いたからと書かれていた。このことばに被爆された人々の心の重みを感じ、そのことが受け止められる自分でいたいと感じた。

 

◆ 【 KT 】

長岡さん浜井さん丹下さん高橋さん他の広島の復興に活躍された人々の話。原爆の悲惨さは読みながら胸が痛かった。実際はもっともっとむごかったと被爆した人から聞いた記憶がある。あれだけの仕事をされた長岡さんの晩年は、も少し幸せであって欲しかった。

「私たちが歴史をしっかり見つめることで平和への願いを確固たるものにし、二度と同じ過ちをおかさないことだろう」強く願う。

 

◆ 【 E子 】

当番でした。資料を整理したことから(事実から)人間を見ることができました。

 

◆ 【 T 】

原爆投下後の広島の街の様子は、映画や人の話である程度は知っていたが、復興に関わった人達の

ことは知らなかったので興味深かった。

平和都市として復興するのだという強い思いを持って取り組まれたから今の広島はあるのだなと思っ

た。

 

◆ 【 F 】

ヒロシマの話を読むのは2つの理由で辛い。1つは8月6日に午前8時15分を境に日常が奪われてしまう運命を意識してしまうから。もう1つは本を読み終え、戦争の悲惨さを知り平和への想いを強めても「じゃあ どうするのか?」の解は見つからず、ややもするとカタルシスに終わってしまいかねないからだ。知った気になるだけではなく、事実と向き合い真の対話をしなければいけないと思う。これが読み手の責任であり「この世は思うようにならない苦しさ」を抱えながら考え続けることに「無言の値打ち」があるのだろう。 

 

◆ 【 MM 】

4人の人間に焦点を当てて書かれたルポルタージュ。参加者それぞれの解釈。どの人に興味を持ったかなどを聞くことができた。実際の体験、身近な人の話を聞くことができて、この大きな事柄に少し近付けた気がした。

 

 

課題本『原爆 広島を復興させた人たち』 感想

◆ 【 C 】 

 縁あって広島県に住むことができて本当によかったと、その地を離れてしまった今、つくづく思う。理由はいくつもあるが、その一つに、この原爆がある。

引っ越し後、初めて広島の街を訪れて路面電車に乗り、市内を流れる川を渡った時、水面の輝きに目が眩んだ。そしてふいに、この川はあの日多くの死体でいっぱいだったのだという事実が胸に迫り、息苦しくなった。ここなのだ、と。

本に書かれた場所を知っている、行ったことがあるという経験は、その読書をぐっと身近に感じさせる。行間に、その現場の気配、空気を感じるからだろう。

 

何度も見上げた原爆ドームは、今の広島の街に溶けこんでいるようで、何か人を圧倒するようなパワーがあった。あの恐ろしい事実を忘れてはならない、そして1人でも多くの人に知ってもらいたいという平和を願う子ども、市民の声から保存活動が始まり、人々の募金で残されたこと。その思いを秘めているからだとわかった。原爆資料館に寄贈された遺品のひとつひとつにも、人々の無念の思いが込められている。故人の生きていた証を手放す家族の思い。そんな当たり前のようなことに、私はちゃんと向き合ってきたか。どこかで軽んじてはいなかったか、と読んでいて思わずにはいられなかった。

 章の中では特に、原子力の平和利用についての事実が衝撃的だった。あれだけの惨事を受けながら、広島で、しかも原爆資料館で、行われたというのだ。どうしてそんなことを、当時、市民達は受け入れたのか。資料館9代目館長の原田浩の言葉からその理由の一つがわかる。<僕たち広島市民は原爆を体験しているからこそ、平和を願う気持ちが他の日本人より何倍もつよい。だからこそ、米国や政府の平和利用のアピールにまんまと乗せられてしまったんだ>。忘れたくても忘れられない原爆の恐ろしさ、家族・友人を失った無念と生き残った後ろめたさ、原爆症の苦しみと将来への不安。<怒るべき何かがあるが,何に対して怒ればよいかわか

らない>ー以前読書会で読んだ、アンソニー・ドーア『すべての見えない光』を思い出す。

平和利用という言葉のすり替えで、原爆に対する底知れぬ恐怖感を、一瞬でいいから消してしまいたい、この事実から逃げ出したいーそんな思いもあったのではないかと思う。

 

 今、あえて、ヒロシマの原爆のことを書くーそのことにどんな意味があるのだろう。著者は40代で、戦争を話でしか知らない、私と同じ世代だ。彼は集英社のインタビューで、こう答えている。

 <戦後、広島は平和都市として復興されることになります。広島を元の姿に戻そうとするのではなく、未来に向かって「平和」というバトンを引き継いでいく気持ちが、被爆者をはじめ大勢の人びとのなかにあったわけです。そして、そのバトンの先にいるのは誰かと言えば、現代の僕たちですよね。彼らから僕たちに託されたものは何なのかを、時代のなかできちんと見つめること。これはノンフィクション作家としてやらなければならない仕事のひとつだと思いました。>

原爆市長の浜井信三のことは知っていたが、他の人物、出来事など知らないことばかりだった。平和、復興への今までの歩みがこんなにも険しい道のりであったことを知らずして、一体私はこの先、平和を守る社会の一員としてどう歩んでいくつもりなのかと自問した。そして命がけで託されたバトンの重さを知った今、私はどう応えればいいのか。

 また今年も8月がくる。静寂の中、蝉時雨がさらに6日の沈黙を深くする。

 

 

◆ 【 YA 】

7月22日 朝日新聞の記事

当時広島第一商業学校(現皆実高校)の生徒(現87才)への取材

   その日爆心地から1.6キロの自宅で被爆。あの日手術後の体調不調で学校を休んでいた。クラスメ

   ートら一年生約220人は爆心地の南西800メートルの土橋町で建物の取り壊し作業に従事して、原

   爆にあってみな死んだ。

 

7月21日 夕方のテレビ 

1952年長田新編の『原爆の子』に作文を寄せた、辛うじて生き延びた少年少女の現在だった。88

才の女性は皮膚等が垂れ下がった人間の姿が並ぶ絵の横で、「その姿が怖かった、怖かった」と。

   

投下直後の広島市の写真を見たときの衝撃。一面黒ずんだ瓦礫がどこまでも続き、投下前の町とかの

位置もわからぬ凄まじさ。広島市の生活が一瞬で消えた。即死を含めて十数万人の命が消えた。数十

年は草木も生えないと言われたこのまちを復興させようと立ち上がった沢山の人々がいた。  

 

この本では広島復興に極だった功績のあった四人が取りあげられている。 

長岡省吾

被爆物の収集に尽力し、原爆資料館初代館長

浜井信三

長い間、広島市長として平和都市建設に尽力

丹下健三

学生時代の数年広島で過ごした縁で彼自身の設計では初めて建造物 慰霊碑他

高橋昭博

広島の惨状を世界に訴え、平和運動に身を投じる

 

四人のうち、この本では長岡省吾のことが最も多くページ数がさいてあるが、原爆関係の資料や冊子には、大きく名前が載ってはいない。

鉱石類の研究者だった長岡は投下の前年44年に広大の研究室に就職。直接被爆は免れたが投下2日後には瓦礫の中を驚異的に歩き回り、石をはじめ沢山の遺物を集める。

資料によると7日に爆心地に入り護国神社の石灯篭に腰を下ろし、針で突いたような痛みを感じる。石の表面が溶融してできたトゲであった。原子爆弾かもしれないと直感した。

又10月には地学班員として医師に刻まれた熱線の方向や傾きから爆発地点を測定する。

取り扱い方が驚きの連続だ。一つ一つ収集した日時や場所を記録し、受けた放射能の量までを測る。放射能にまみれた夥しい石ころや生活物を家に持ち帰り、これらで部屋が埋っていったらしい。家族は放射能を恐れて反対はしていた。

 

こうした長岡の地道で精緻な研究の成果が実り、正式に55年原爆資料館の館長に就いた。

7年後には退いたがこの時展示資料は約千点に及んだ。

又この年、僅か投下後10年目にして、アメリカや日本も参加した広島での会議で核の平和利用が論議されている。少しでも政治が入り込むと、長岡の考えと乖離が生まれる。

資料館の内容に関して、色々な議論が起きており、2年前にリニューアルとなった館は「実物重視」に向けられている。

展示資料すべてが私たちに「原爆の非人道性」を訴え、これからの人が未来に向けて、核とどのように向き合っていくべきか、又世界の国々のトップがこの資料館を実際に見て、核とどう向き合うかを考えるキッカケにさればいいと思っている。

長岡省吾の地道な収集が無かったら、いち早くの収集が無かったら展示物にも影響があったかも知れない。

 

「ヒロシマを遺した男」長岡省吾の信念と情熱

礎を築く-初代館長 長岡省吾の足跡

として今日7月22日から2月23日まで開催

 

 

◆ 【 TK 】

この本は広島市の当時の市長さんと平和資料館の館長さんの事が詳しく書いてある本でした。館長さんの石に対する研究心から広島の復興に関わってきます。

戦争に対する団体と政治と学歴等が常に絡んでくるのが世の中の常ですが、皆が建設と資料館等で都市を再建しようとする歴史がよくわかりました。
 政治、軍、学歴に重きがおかれる中ムシカの喫茶店で平和を語り合い輪が広がってきます。
 慰霊碑の言葉、安らかに眠って下さいの主語は誰なのか考えている広島市民も皆が関心を抱いて考えていることもよくわかります。
 長岡さんの私生活とお葬式の事まで書かれていますが、やはり一人の人間としての生き方の一部として平和資料館があったのだと思います。世の中の学歴社会、戦争、個人としての研究家族、色々な状況の中で翻弄されながら生きた一生を知ることができました。

 

 

◆ 【 MM 】

 今月の課題本はボリュームがあったので本格的に読み始める前にぱらぱらとページをめくってみて、笑

 

顔の写真が印象的だった「第4章 悲劇を継ぐ」から読んでみた。

 

 原爆資料館に展示してある遺品それぞれのエピソードの章だった。4章の始めに載っていた写真は原

 

爆が原因で家族が全滅したひとつの家庭の戦争前~戦中の幸せな笑顔の写真だった。この章を読ん

 

で、それからほかの章を開く気にはなれずしばらく寝かせていた。嫌だったのではない。迫ってくるものが

 

大きすぎて受け止める気になるまで時間がかかった。

 

 この本には4人の人物が取り上げられている。長岡省吾、丹下健三、浜井信三、高橋昭博が原爆投下

 

時どこにいたかが地図上に示されていてぱっと見てわかりやすい。山口の上関にいた長岡省吾はそこか

 

ら原爆の雲を見たという。私の祖母も光市からきのこ雲が見えたと言っていたのを思い出した。県を越え

 

て見えた原爆の雲。その雲の下は本にもあった通り地獄の様相だったのだろう…。

 

4人それぞれの原爆の体験からその後広島の復興や原爆資料館にどのように関わっていくのかが書か

 

れていた。原爆資料館が政治利用されたことなど私には知らないことがたくさんあって、びっくりするや

 

ら腹立たしいやら。今まで原爆資料館を訪れたことはあっても一つの方向からしか見ていなかったのだ

 

なと感じた。

 

 読書会ではそれぞれの感想や体験を聞きながら、なるほどと思ったのは、戦争や原爆の本の終わりに

 

はたいてい「平和への願いを確固たるものへ」「平和への祈りともに」など同じような表現を見ることがあり

 

むなしい気持ちになる、というものだ。その時の先生のことばが印象に残っていて、「言葉で表すことがで

 

きない世界を読み物は言葉で表さなくてはいけない。言葉にしきれない部分を読み手がいかに持ち続け

 

るか」。

 

 言葉にしきれない部分をいかに持ち続けるか。大きいテーマだ。

 

 読書会のあとに『被爆樹巡礼 原爆から蘇ったヒロシマの木と証言者の記録』を読んでみた。県立図書

 

館の職員おすすめの本に紹介されていた。読書会の中でも被爆樹の話も出たので手に取ってみた。こ

 

の本の「八月六日の記憶 一樹一樹に物語がある」が『原爆』の第4章とつながっているような気がした。

 

遺品それぞれのエピソードがあるように、被爆樹にもそれぞれの物語があった。目を覆いたくなるような

 

出来事。だがこんなことが本当にあったのだ。読書会でも話に上がったが、戦争、原爆を体験して語る人

 

がこれから少なくなる。次の世代にどう伝えていくのか。今の私にできることはこういう本の引き出しを増や

 

して機会があれば紹介していくことか。

 

 また8月が来ます。夏にはこうして戦争やそれに関する課題本が読めることをありがたく思います。

 

 

◆ 【 SM 】

今年も、「戦争・平和・人間」を考える季節がやってきた。

私は戦争を体験していない世代だが、小学生の頃から親から「原爆のむごさ」「空襲のすさまじさ」」「焼夷弾の死と隣り合わせのこわさ」をくり返し聴いてきた。また学校では平和学習として映画を見たり、小中高の先生の体験談を聞いたりしてきた。特に中2で聴いた、放射能が子孫に及ぼす原爆の理不尽さは今も忘れられない。戦争はいつまでも終わらないのである。

石井光太はノンフィクション作品として『原爆 広島を復興させた人たち』を著した。

資料館初代館長「長岡省吾」、原爆市長と呼ばれた「浜井信三」、平和公園を創り上げた建築家「丹下健三」、被爆者として世界に訴え続け後の資料館館長になった「高橋昭博」の4名を中心に描く。「広島を、かならず焦土から平和都市として生まれ変わらせる」という悲願から、それぞれの人生や命を懸けた取組みを冷静な筆致で著している。

ヒロシマの復興に向けて、知らない事実も多かった。だからこそ情的に読み進めた。

長岡省吾が言った言葉が、胸を締め付ける。

「後世に広島の犠牲がどんなものであったかをまざまざとわからせるのは、だれかがしなければならない仕事なのだ。少なくともだれかが、人間の歴史のこのどん底を、良心のない人びとや空想力の乏しい人びとの眼前に警告としてよみがえらせなくてはならないのだ」

P71) 時代の渦中でこの言葉が言えるのは、よほどの覚悟と知的な憤りというものだろう。

浜井信三が放った言葉は、後年を生きる者に勇気を与えてくれる。

「この碑の前にぬかずく一人一人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ一つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなるP166) 生き残った者としての凄まじい覚悟がうかがえる。

丹下健三の言葉にどきっとした。平和は人間の叡智と不断の努力で創り続けるものなのだ!

「平和とは我々が意識してつくり出すものだ。慰霊のためのお堂ではなく、平和の工場をつ くらなければならない」(P121) 平和を希求するエネルギーの量が違う!

高橋昭博は妻に「子供がほしいなら、別れてもいいぞ」と言った。妻は首を横にふった。どんな想いで言

い、どんな想いで聴いたのかと想像すると胸が張り裂けそうである。放射能による健康被害で深刻なのは内部被ばくであるという。染色体異常が起こり、リンパ球・甲状腺などに様々な病気を引き起こす。また放射能は何世代にも影響を与える。だからこそ社会に偏見や差別を引き起こす。

  

7月22日付け中国新聞に「戦後75年 なかにし礼さんに聞く」として意見が掲載されている。個人と国の関係を述べているが一読の価値があると考える。

<人をあやめるものに対する嫌悪感を育むためには本を読むしかありません。「武」に対しては「文」で立ち向かうしかない。> 

広島に生まれ、広島に育ち、広島に住み続けた私としては、『原爆 広島を復興させた人び

とに』を通して、原爆投下後の広島の街を復興させた4人やその周りの方々に出会えたことに感謝するとともに誇りに思う日々である。