2020年9月                           

   課題本『こころ』夏目漱石/作 岩崎書店

 

     

                         読書会を終えて 

                       講師 吉川 五百枝

 

 竹原読書会では、広島県立図書館が所蔵している「読書会用図書」の目録の中から毎月の課題図書を選んでいる。110冊の借り受けが可能だ。

今月は、夏目漱石の『こころ』が選ばれていたので、先月、参加者はみんなこの本を手にすることができた。だから、同じ表紙の同じ本がみんなの机の上にはあった。

それで全く問題は無いのだが、この『こころ』に関して言えば、初版本が参考図書として登場してくれることが望ましかった。そして、会話の途中で、その初版本が登場したのだ。ジャーン!という効果音は入らなかったが、「まってました!」と内心では声を張り上げた。

新聞小説として書かれたこの作品は、夏目漱石が、門弟達と縁のある岩波茂雄の出版事業の始まりを祝って自装自費出版したものだ。しかも、表紙の「こころ」を漢字の「心」で表している。私がこの初版本を見たのは、もう30年近い前のことで、仲間うちでも、どうして漢字を使っているのだろうと話題になった。

表紙に「心」という文字を使ったのは「荀子」の漢文に使われている文字で、性悪説を説く荀子に共鳴する漱石の思想の暗示ではないか、と文芸評論の江藤 淳は言う。そう言われてみると、より興味深い。漱石が、人間の生きるということの内面に、暗い陰をみていたということで、自分の人生へも怖れを感じていたと受け取れる。

漱石が『こころ』を書いたのは1914年だが、1916年に49才で病死している。何度も様々な患いをして復活してきているので、ここで命が終わると考えてはいなかっただろう。

今ある3部構成の作品ではなく、いくつかの短編を組み合わせてまとめようとした構想を、新聞連載の予告に伺わせている。そこでは、まとめる題が、ひらがなの『こころ』になっていて、その柱が、「先生遺書」だったようだ。初めから上・中・下の3部作にする予定ではなかったものを、出版するとき順番を変えた事情があったようだ。

今回読み返してみると、この先生の遺書の件が圧巻で、このために前の2つがあったのかと思う。しかし、先生の遺書は、列車の中で、弟子である「私」によって読まれる形を取ってそのまま作品が終わるから、それで?という感じが残ってしまう。読み終わったら、最初に戻って「先生と私」をもう一度読むと落ち着く気分になりそうだ。

「漱石」というと、その文化人としての思想や、社会時評の切り方などが取り上げられやすいが、小説家としての筆の冴えがあってはじめて様々なアプローチができるのだと思う。

『こころ』は、小説家として練られた構想の妙が感じられる。漱石は小説家だったと、あらためて認識した。

まず登場する「私」は、敬愛する先生にであい、先生夫妻と親しくなる。そこで長い時間をかけて、先生を外から見る目で描いて行く。読み手の私は、「私」と同じ外から先生を見る事に慣れていく。そして3部目で、外に居るはずの「私」は、その先生になってしまう。外に位置した「私」は消され、先生を〈私〉として内側の立場になって語っていく。

「私」と〈私〉の視座がこうして動くのは、読み手の私にはかなりの衝撃になる。しかも、間に挟まれた2部目は、「私」が体験する親族の裏切りや、父子の葛藤などが内容で、傍流とも言えるが、私は、前編の続きで、身の回りに起きたことを「私」の目で見ている。こういうものを短編としていくつか書こうとしていたのかもしれない。

その私が受ける変動の目に加えられる衝撃だから、読み手の私は一気にひきこまれていく。

3部目の「先生と遺書」は、男女の三角関係を主題にする。恋愛小説は、いつの時代でも多かれ少なかれ愛をめぐって三人がもつれる内容が多い。二人より三人でもめる赤裸々な人間の愛と憎しみは、いくら書いても書ききれない小説の題材なのだ。

「先生と遺書」では、三人のもつれがKという一人の男性の自決によって納まっていくが、これは計算式のようには行かない。結局、もう一人の〈私〉も、Kに対する罪の思いに耐えられず自死に逃れた。

漱石の小説家としての筆の才はすばらしいと思う。初期の作品でも、感嘆した。それは認めるとして、時代の違いとでもいう部分の構成は、どうしようも無いと思う。自殺をどう思うかと今聞かれれば、それぞれの自死は私に判断できることではないと答えるしか無いが、先生が自死を決行するきっかけとなった明治天皇に殉死した乃木大将を持ち出すのは、やはり、明治の人特有の感情だろうと想像する。だから現代人には、漱石の筆を以てしても意図するような感情の渦は起きない。それまでKに対する罪の意識に寄り添ってきたつもりが、最後は、現代人の感覚が路頭に迷ってしまうのだ。

遺書を読んだ門弟の「私」がどう思ったかは、作中では語られない。読書会では「続きが欲しいね」「本当にこの先生はなくなっているのだろうか」という声もあったが、殉死を知らない者にとっては、あっけない終わり方だった。

江藤 淳は、荀子の「心」に漱石を暗示するものがあると言うが、その性悪説で言うところの悪は、人間の弱さという意味である。生まれたからには生きていかなければならない。生きることは、欲望をエンジンとする。だから燃料を求める。漱石は幼い頃、おとなの欲望に振り回された。その体験が根底にあり、性悪説があったとしても不思議ではない。

荀子は、その性悪を礼と義でコントロールすることを説いた。漱石も、知性と意思で生きた人だ。存在の罪を認めながらも人生を拒否はしなかった。しかし、作品では、先生を自死させてしまった。当時の価値観の中に、武士の責任の取り方の残滓をみる。

次回の読書会は、参加者がそれぞれにみつけた漱石の足跡を語り合うことになっている。

今月の当番さんが配布されたたっぷりある資料が、2ヶ月連続の課題「漱石」の導き手になりそうだ。

 

 

 

 

課題本『こころ』 三行感想

◆ 【 YA 】

人生のすべてを明治時代に生きた漱石の人生観を如実に物語る「こころ」ではなかったかと思う。最後の作品につれてエゴイズムをとりあげられて来ていると思う。先生のエゴ、友人の絶望感、人間の内面は解らない。

 

◆ 【 R子 】

「こころ」を読んで登場人物の立場での心のゆらぎが本当に細かく描写されていると感じました。

275頁、先生の遺書の中に「私は妻に何も知らせたくない。妻のもつ記憶を純白に保存しておいてやりたいのが唯一の希望」と書かれていた。本当に登場人物それぞれのエゴ(利己主義)の中での相手を思いやるための苦悩が描かれていてよかった。

 

◆ 【 KT 】

親友のKを裏切り自殺させたという自責の念が先生を死へと導いていった。

奥さんと先生は本当に愛しあっていたのだろうか?いろいろな意見が聞けて楽しかった。

 

◆ 【 E子 】

「夏目漱石を切る」位の読書会でした。言葉が表す意味あいが、時代を背景にして変化すること、細かいことも大きく表現できるのが文豪夏目漱石のペンの力と納得した今日の会でした。

 

◆ 【 T 】

若いときの家族の葛藤・恋愛。若い人が読まれると生きる指針となる言葉がみつかるだろう。

また、年を経て自分の若い時をふり返りながら読むと、うなずける所、納得できる所が見つかります。

 

◆ 【 N2 】

読書会出席で新しい発見がありました。一人の方の「先生は亡くなっていない、生きているのではないか」との感想は、それは有りうることと、はっとさせられました。 

 

◆ 【 F 】

先生は「純白」な生き方をしたかったんじゃないだろうか。お金があるからできた生活かもしれないが、自身の

体験した過去を人に語ることをしてこなかったのは、先生の持っていた価値観・人生哲学のようなものが根っこ

にあってのことだと思う。

 

◆ 【 K子 】

大作です。まさに活字のよさ。難漢字・難語句の洪水。ご安心あれ!(注ありです)

心模様をこんな風に表現するのか?理解するのにしんどい(・・・・)個所が私には多くありました。

それにしても文豪といわれた作家の作品とは、こんなにもズシリと重いものか?今風と比較

すると脱帽です。

 

◆ 【 MM 】

これだけあらすじが知れ渡っている本を読むというのも難しいものだなと思った。解説もたくさん出ていて、そち

らを先に読んでしまったので、自分で先入観をうえつけて読んでしまった。

もう少し歳を重ねたあと、再読したい。

 

◆ 【 SM 】

高校1年の時、担任の先生が「現代国語」の先生だった。その先生が「夏目漱石が文豪と言われるが、私は森

鴎外こそが文豪だと思う」と仰った。中学生の時から、夏目漱石の作品が好きだった私は、夏休みに森鴎外の

作品『舞姫』『山椒大夫』「雁』等を読んだ。印象深かったのは『高瀬舟』であった。次いで夏目漱石の作品を

読み返した。その中に『こころ』もあった。

2学期始業式の朝、「どういうことを文豪というのか分からないけど、夏目漱石の『こころ』の方が、置かれた状況で、誰しもがもつであろう心情を、これでもかこれでもかと深くえぐり、読者を引き込み、深く考えさせてくれる」と確信したことを想い出した。

この歳になり改めて読むと、感動がよみがえり、下「先生と遺書」では「ここを読みたかったんだよなぁ」と、登場人物「K」は自我の強さから折り合いをつけることが下手で、孤独や葛藤を嫌というほど味わい、自死するに至った心の動きを想像すると胸が締め付けられる。一方、「私」のお嬢さんと婚約する際の葛藤やKの自殺後、自責の念に苛まれ新婚の中でも孤独を味わい、自らも自殺を決断するまでの心の動きを手に取るように想像することができ、文学としての素晴らしさを再認識することができた。

そして「私」が父親の最期を気にしながらも「先生」の自死を思い詰めて汽車に乗ったことに先生との縁を真面

目につなげ、結果つながった信頼関係を羨ましく感じる自分がいた。

 

   

 

 

課題本『こころ』 感想

◆ 【 YA 】

夏目漱石は明治維新一年前に生まれ、49才で亡くなるまですべて明治時代を生きている。

その間には日清戦争、日露戦争、大逆事件が起こり、又第一次大戦が始まり世の中は不穏だったに違いない。1900年にロンドンに留学し、最も不愉快だった二年前の留学から、個人主義という考えを土産に帰国した3年後に『吾輩は猫である』を発表、その後、次々と名作を世に出している。『こころ』はそうした中、大病を患い乍ら死の三年前におよそ4ヵ月に渡る長丁場をかけて朝日新聞に連載された。1914年当時の題は『心 先生の遺書』だった。当時の読者もきっと朝日新聞が家に届くのを待ちかねて、「私」やKの行く末を心配したに違いない。

「先生との出合いと私」

大学生の私は横浜の海辺でその人に声をかけこれをきっかけに親しくなり、それからは、その人を先生と呼ぶようになる。

奥さんとの穏やかな生活の中に、私は先生に謎めいたものを感じた。毎月の雑司ヶ谷の墓参、世間とは隔離したような生活。私は徐々に先生の過去が知りたくなり、それを迫る。先生は私を信頼出来得る人間とみたのか、機会を待って自分の過去を話すと約束した。

私は大学を卒業、父親の具合が悪いからと帰省している間に病状が悪化、この状況の中、先生からの分厚い手紙が届く。私はこれは先生の遺書だと、手紙を携えて東京への汽車に飛び乗った。何故、遺書だとすぐわかったのか、帰省の前には既に死を感じていたのか。

先生と私の関係は信頼の絆があったのだろう。

「先生の手紙から」

道教の友人Kの生活困窮を知り私は自分の下宿に呼び寄せた。養家や両親の希望を拒否し宗教や哲学に目覚めたKは双方から絶縁され私と同じような境遇のKの世話をする。

その道を求めるにはすべてを犠牲にして精進する旨を第一信条と生きるKと私の間には、既に溝が横たわっていただろう。この下宿にはお嬢さんが居た。襖一枚のみで仕切られた部屋に住む二人、安穏に過ぎる日は無い。生活を続けていくうちに、私はKの信条に反した行動すべてに懐疑的になり、時には打ちのめす言動が出る。

二人で房州の旅に出た時、岩の上で本を広げるKに私は襟首をぐいと掴み、こうして海の中へ突き落したらどうすると聞いた。Kは後ろ向きのまま、ちょうど好い、やってくれと答えた。私はすぐ手を放した。この場面を想像する時、二人の顔姿はどんな形相だったろうと考える。そして切なくなる。この場でKは私にこの言葉を投げた。「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と。

そのうちKのお嬢さんに対する信条にそぐわない態度に、今度は私が同じ言葉を二度もKに返した。強い厳しい言葉だ。私はKに負けぬよう内緒でお嬢さんと婚約。それを知った時のKの心中はわからない。冷静に平然と過すKに私は「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」とエゴが胸に響いたに違いない。私が悶々としているある土曜日の晩、Kは自殺した。

この時も襖は少し開いていた。襖越しに二人で話をしていた時と同じだ。部屋の様子に竦んだ私だがそれでもついに私を忘れる事が出来なかった。遺書を読んで私のおそれていたことは一切無く私は助かったと思った。

何と世間体を恐れていることか。そもそもKの自殺はお嬢さんの婚約の直接的なものでは無いかも知れぬ。Kの遺書は簡単なものだった。しかし最後に墨の余りで書き添えられたと見える

「もっと早く死ぬべきなのになぜ今まで生きていたのだろう」だ。墨も少なく字が掠れてやっと本心を書いたのだろうと思うと胸が締め付けられ涙がこみあげてくる。

私は遺書を皆んなの眼につくように元の通りに置いた。こんな限界状況の中、私は罪の意識より自分の保身に走り、結婚後の生き方に苛められることになる。私は今を精神的な孤独に苦しんでいるが、Kも信頼して頼っていた私の裏切りに同じように苦しんでいたのだろう。Kの自殺の真相はわからない。私は最も重い原因は自分の道を求めようと家を出た時から僅かの年月の後に、Kは自ら、道をはずした事の自分へのふがいなさと絶望ではないかと考える。

そのうち明治天皇の崩御があり、乃木大将夫婦が殉死したことを知る。この事がきっかけになったのだろうか、私は殉ずる事を決心する。何と重たい小説だろう。

人の心の深いところにあるものは誰しも、のぞくことは出来ないし、自分自身にも分からないことがある。人の精神の深さを知る。Kは私もお嬢さんに恋心を抱いているとは考えなかったのだろうか。

 

 

◆ 【 TK 】

 恥ずかしいのですが夏目漱石の本は一度も読んだことがありませんでした。時代劇小説とまではいかないが、時代が全然違うからです。
 当時は大学生がとても権威のある存在とは驚きました。
 天皇とか乃木大将にも重きが置かれそれが自殺に影響を受けたかもしれません。今でも、著名な方が自死を選ぶのも色んな価値観に敏感になっているのかもしれないと感じました。
 自分の財産をとられて軽蔑していた主人公。でも今度は自分が友人の恋路を奪ってしまっている。
 人を軽蔑しながら、いつの間にか自分が同じような事をしていると心に責められたのです。
 自分はそのつもりはないのにいつの間にか罪らしき事をしてしまうのが人間の不完全さです。
 そして自分の良心が咎められている。良心を責められて苦しむ人間の為に神がおられると思うのです。 
 財産金品を奪う事ははっきり罪とわかりますが、恋愛の行方についての色んなこと全ては罪と言えるか、言えないか?こういう事は罪なのかどうかでずっと悩むとおもうのですが、善か悪か決めるのは神のみと感じました。
 そういう苦しみのためにも神がいる気がします。
 更に漱石を読んで、こんなににも人物と心境を掘り下げ、こくめいに書いている人はいないと感じました。
 他の作品も読んでみたいと思っています。

 

 

◆ 【 MM 】

 

 『こころ』…。名作と呼ばれこれほどネタバレしている作品をきちんと読んでこなかった。

 

挑戦したことはある。しかし読みにくくて途中で挫折してしまった。今回は読書会の課題本ということで読んでみ

 

た。

 

 大人になってから読んだのがよかったのかどうか、今回は読めた。漢字など現代では見ない表現があったが

 

先が早く知りたくてどんどん読み進めた。しかし、なぜかモヤッとし、読みたい、先が知りたいと思う割には全体の

 

印象としては救いようがない感じを持った。

 

 みんなの前で話した私の感想は「お嬢さんの気持ちが見えてこない。お嬢さんの気持ちはどこへ?女性が登

 

場人物としては出てくるのに全然そこにクローズアップされていなくて男性ばかりの小説、という感じがした」という

 

ものだ。印象に残っているのは私が「お嬢さんは先生と結婚はしたものの、本当はKに気持ちがあったので

 

は?」という疑問に「どっちでもよかったのよ。お嬢さんは」の答えに私以外のみんなが「うんうんうん。そうそうそ

 

う」と賛同していたことだ。『こころ』に描かれた明治末期の女性、お嬢さんや奥さんのような女性は珍しくなかっ

 

た。お手伝いさんを雇えるくらいの裕福な暮らし。相手の気持ち、自分の気持ちどうこうというよりにっこり暮せれ

 

ばそれでよい。

 

 それと同時にストーリーの中に出てきた明治天皇崩御と乃木将軍の殉職。それに続くような父の危篤と先生の

 

死。天皇崩御を知って具合が悪くなったり自ら命を絶つ。今の私とは価値観が相容れないことばかりだ。わから

 

ないことだらけである。一人の大人が仕事をしなくても生活していける。主人の遺産でお手伝いさんを雇える生

 

活。今とは経済の大きさが違ったと先生はおっしゃっていた。女性の気持ちが見えない。天皇崩御に続く殉職。

 

明治末期…天皇崩御は1912年。100年のうちに日本の価値観ががらっと変わったことになる。

 

 その変化が良いのか悪いのかはわからない。便利や自由を得た半面大事なものを失っているのか?とも感じ

 

た。これから100年後には私のような女性も「は?意味が分からない…全然理解できない」ということになるのだ

 

ろうか…。

 

 

 今月の『こころ』は読みやすいのに理解できない、でもまだその世界を知りたい覗きたいと不思議な感覚を味わ

 

った。来月は夏目漱石の作品を各々選んで読んでくる課題がある。夏目漱石に関する本も読みながら来月の読

 

書会を楽しみに待つことにする。