20211月                                                                    

課題本『おら おらで ひとり いぐも』若竹千佐子/作 河出書房新社 2017

                                

 

              賢治 借景

                       

                     講師 吉川五百枝

(Ora Orade Shitori egumo)

宮澤賢治の詩「永訣の朝」の一節を題名にした小説となれば、最初から作者の後に透明な賢治を見てしまいました。

この作品では、ふんだんに使われている東北弁です。ひらがな表記すると、いかにもやわらかく見えます。しかし、実は文章は全体的になだらかではありません。平らな草原のあちこちに岩が頭を出している感じがするのです。岩の頭を想起させる漢字の使用に気付いてみると、ぱっと開いたその1ページに、付与堆積・原基・採用・単品・存在・類似模倣・甚大・相似形・最古層・秘境・原初・凝集凝結・主語・述語とこれだけの漢字が使われていました。ひらがなの中に、概念的な漢字が混じる。賢治も、ひらがなで描写する中に、物理学や地質学の漢字を交えています。そして、〈死んだ死んだ・・・〉という同じ語の繰り返しも、賢治が時に見せている口調です。文体の特徴まで似ているような気がしてくるのは題名のせいでしょうか。

主人公の桃子さんは、〈おめはんは簡単なごどをわざとむずかしく喋る。〉と夫の周造から言われていたようですし、自分でも〈理詰めでものを考えたいタイプ〉だと言っています。〈直感〉という言葉も、漢字だけではすませない。〈自分の内部に自分のあずかりしらない未知の自分がいて、そのものが桃子さんのしらないところでずっと考え続けていて、あるときひょいと浮上して、何の説明もなしに正論だけを述べて、さっときえていくという思いに駆られる。〉これほどの説明がつく桃子さんなのです。

題名もそうですが、全体の東北弁を共通語になおしたら、内容はさておいて、無味乾燥な作品になるような気がします。東北弁で書くことによって、桃子さんは、〈おそろしいことだども、おらが顕わになるのだす〉と言う通り、〈柔毛突起〉と呼ぶ自分の内心のたくさんの声を呼び起こす事ができました。考えてみれば、私は東北弁を知らないはずなのに、民話や昔話や宮澤賢治作品などで、聞き覚えがあるような気さえします。

その〈おら〉は、結婚の約束も放り投げて、岩手から東京に出てきて周造とであいました。それ以来31年を共に暮らした夫の周造です。その周造のことを、「虔十」だと桃子さんは言うのです。

「虔十」という文字を見たとき、私はドキンとしました。又、賢治です。

彼女の背中がはっきり見えてきました。ただ東北の地に生まれたから東北弁というだけでは

なく、彼女は、その地に息づく多くの物語や詩を背負っていたのです。周造を描くのに、賢治の『虔十公園林』の虔十を読者に送ってきているのですから。

しかし、〈周造、逝ってしまった、おらを残して〉。

周造は、桃子さんを残して亡くなりました。

「虔十」という名を背負っている夫とはいっても、夫婦であるということは、恐怖の二人羽織状態になることもあるわけです。〈愛はくせもの〉〈でいじなのは愛よりも自由だ、自立だ〉と自分主権に生きたい思いもあった桃子さん。まだ若さを保っている桃子さんには、夫の死にも一点の喜びをみつける〈おら〉が健在でした。彼女は、意味を探したい人です。だから、〈おらは独りで生きでみたかったのす。思い通りに我の力で生きでみたがった。〉それが、周造の死を受け入れる為に桃子さんが見つけた意味でした。

桃子さんには、子供も孫も居ます。周造と二人で生きている間は、二人でいる事が全てで、おだやかにしあわせでした。しかし残されて15年。老いを感じるようになり、子や孫から喜びを与えられる立場になると、過去の自分を振り返ってみます。

〈済まなかった。おらは女の子であるおめはんへの接し方が分からなかった。〉その中でもなお、〈自分より大事な子供などいない〉と自分に頷くのです。

〈自分のような、容易に人と打ち解けられず孤立した人間が、それでも何とか前を向いていられるのは、自分の心を友とするから〉という自覚は、〈だいじょうぶだ。おめにはおらがついでっから、おめとおらは最後まで一緒だから〉と、自分が自分の理解者になるということが「ひとり」の意識を支えるのだろうと、これには共鳴しました。

だから、心をいくつもの〈柔毛突起〉に分けながら、しかも狂気にさせない強靱な〈おら〉がいることをみせています。

やがて夫が世界から消えることの淋しさに気付いてしまいます。喪失の耐え難い痛みを引きずっている桃子さんが、〈おら おらで ひとりいぐも〉という世界はどんな世界なのか。賢治からは、どんな世界をみせられたのか、

題名だけ見れば、本当に「おら一人で行く」と威勢良く自立を宣言する言葉にも受け取れますが、年と共に、目には見えなくても〈周造はいる。必ず周造の住む世界はある。〉と変容を遂げました。〈人は変わるもんだな、変われるもんだな〉と自認しながら。

桃子さんの〈ひとり〉は、周造の居る処へ向かうひとり旅を感じさせます。

周造の向こうに透かして見える大きな世界の〈はがらい〉に、〈おら〉は変わっていくしかなかったのです。独り行く処は、それまでの自分が知らなかった処。軽蔑さえしていた処。〈おら何も知らねがったじゃぁ〉。

神とも仏とも言わなくてよい、八角山でもよいと思います。〈溶け込みなさい〉その声の赴く所に行きたいと思うほど解(ほど)けた桃子さんになりました。年を取ると、私には、〈ひとり〉は、同じ「ひとり」でも、孤独の1人ではなく、最短でも46億年、いえ、時空を越えたもっと大きなものに繋がる1人であるように思えます。

結局は誰も、今生には「ひとり生まれ」「ひとり去る」のですが、「おら、ひとりで行く」のは、懐かしい処に帰る事になるような気がします。63才でこの作品を書いた作者は、10年先の自分とも言える桃子さんを凌駕するような〈おら〉になられるのでしょうか。

 

 

課題本『おら おらで ひとり いぐも』 三行感想

◆ 【 YA 】

数十年をお互い空気のような存在で共に過ごして来たパートナーが、突然傍らから居なくなるという状況。今は想像するしか無いが、必ず誰にも起りうること。桃子さんは夫を突然亡くしその当座は、夫の名を呼び夫の声を探し求めていたが、共に生活していた時には気にもとめず普通のことと思っていたこと。即ち身の回りの事や自分自身の縛り等々、現実はあまり意味も持たなくなったと。孤独の自由を知り自立の喜びを知ったのではないかと。これからの目に見えない世界を追って、夫無しで「ひとりでいぐも」と桃子さんが発する東北弁が頼もしい。

 

◆ 【 R子 】

時代的に女性が自由を求めて活動できる状況でなかった。

桃子さんの若い時に自由を求めてとび出していく!周造さんに出会い周造さんのすることなすこと全部好き!  

だから二人三脚で頑張ってきた。

自分は周造さんのことを一番知っている。だって、一番大好きな大切な人だから。

しかし、周造さんの突然の死に対してその身体の変化に気づけなかった自分がいる。

一番大切な人の死にまで至る身体の変化に気づけなかった自分が許せなかった!なぜ気づけなかったか本書の中に“死んだ死んだ”が三行も書かれている。これは周造さんの死までの過程を見抜けなかった自分を許すことが出来ない。

反対にあふれるだけの周造さんへの愛が入り交ざっているのではないかと感じた。

周造さんの死から“なぜ”“なぜ”と自分に問いかける“死”とか“自分の老い”の関係。

桃子さんは本当に自由になったのだろうか?

表題の「おら おらで ひとり いぐも」は、周造さんとの二人三脚で頑張ってきたものを軸に自分への応援歌にし

たんだろうか?とも思いました。

東北弁と標準語のつなぎがすっきりしていて桃子さんの内面がしっかり読みとれました。

                         

◆ 【 KT 】

東北弁になれなくて、はじめは読みづらかったが、だんだんなれてきた。

24才で東京へ出て、愛する人にめぐりあい、2人の子どもを育てた後突然夫が亡くなった。

ひとり暮らしの15年の桃子さん74歳。「柔毛突起」の内からの声がいくつもわいてくる。

「おらはちゃんと生ぎだべが」そして自由を得た。

世の中にはこの年で老々介護などで苦労している人も多い。

桃子さんは幸せな人だと思った。

 

◆ 【 E子 】

東北弁ではじまるこの作品。登場人物桃子さんの回顧録のような作品でした。作家60才台で桃子さんが70

才台の作品ですから、まだまだ納得のいかないこともありました。

賢治の作品を借りての作品手法は、よかったのでしょう。夫の人生を語らずとも「虔十」の名前で全てが語ら

れ、見通せます。

結果として、「原風景」を心に残すことの重要性を(自分としては)再確認できました。ひとりで生き抜くことは、

一人ではないと…。

 

◆ 【 K子 】

作者の経歴がすごい!小説講座に通い八年の歳月の末、本誌誕生。東北弁もリズムよく読み進んで行くこと

が出来ました。自分自身をこんなにも深く見つめた主人公が登場する小説にあまり出合った記憶があったか

な?軽快な(?)言葉につられて「ウファ」「うふぁ」と読んでいると大間違い。自分の心の底を刳られたような気 

がしてなりませんでした。「おら」の使い方「ひとり」いぐの覚悟。

 

◆ 【 SM 】

講師の吉川先生が題名の「おら おらで ひとり いぐも」に関わって、宮澤賢治の『永訣の朝』を紹介されたとき、課題本の見える世界が一変しました。

読後感として、最愛の夫を亡くした悲しみも、捨てた故郷への郷愁も、母親との確執も、疎遠な息子と娘の関係も、描写に寄り添える箇所が見つけられず、言葉ばかりがうわすべりしている感があったからです。

Ora Orade hitori egumo 最愛の妹トシを亡くした賢治が魂の深淵から命の水を汲み上げるようにして紡ぎ出した言霊だから、私は受け止めが足りませんでした。

また同じく宮澤賢治の『虔十公園林』の話がありました。桃子さんは周造さんを愛しただけでなく、虔十のように美しく純粋な人として尊敬し、捨てたはずの故郷に居場所を思わせるような彼に寄り添ってきたのですから、彼が死んで十五年経とうと彼を喪失した哀しさや寂しさは私の受け止めとは段違いです。

作者は岩手県遠野市出身。改めて課題本を読むと心の底に宮澤賢治が生きているのが解りました。それに作者に遠野物語が生きているから、目は見えなくても様々な心模様を持つ桃子さんが実在する桃子さんを励まします。苛まされている孤独な老いを。

心にある故郷への郷愁、心に生きる母親への感謝、心に居る息子や娘への懺悔などの想い、それらが方言の中に織り込まれ、凝縮され、「おら おらで ひとり 生きて 逝くも」という言葉を紡ぎ出したのだと受け止めることができました。すると急に桃子さんに寄り添えられるように感じました。

この課題本で学んだのは、私の読み方そのものでした。

 

                                                          

課題本『おら おらで ひとり いぐも』 感想

 ◆ 【 YA 】

桃子さんの東北弁は素朴で何とも味があるし、とても物語全体を引き締めている。言葉は力があるものだと改めて思う。

松本清張の『砂の器』で男二人が停車場(?)で東北弁で話している場面があり、これが犯人を絞り込むきっかけになってゆく推理小説を思い出した。どっしりと根を下ろしている東北弁、

生きていく上で決してヤワでは無かった桃子さん、どんな生活だったのだろう。

 平穏な生活が続いている桃子さん夫婦の夫周造の急死が桃子さんの内なる変化をもたらしてゆく。夫の死当座は「周造はどこさ、オラを残して」と夫の姿を求めて切ない程の叫びをあげ、夫の声を捜して部屋を歩き回る桃子さんの姿を想像するとき、何かわかり合える共感するものがあり、胸が熱くなる。

桃子さんにとっての周造の存在は、桃子さん自身と同じ位置にあるのではと思う。きっと周造という人は、桃子さんの師であり、友であり、いつでも傍に寄り添ってくれていたのだろう。

色々なことが過ぎる悶々とした日々を送っていただろう桃子さんの中に、ふと自分が周造から解き放たれた何かを感じる。

 あれ程周造を求め続けていた桃子さんが、周造と共に生きた世界には無い、まだ見ぬ世界への憧れと、どこか希望へと連なる自由と自立への思いが湧き上ってくる。それまでの現実はあまり意味を持たなくなったとも桃子さん自身が語っている。周造のいない桃子さん一人での道、自分で方向性を見つめていくまだ目に見えぬ世界への高揚感。この方向性への一助となったのが、ふるさとではと考える。数十年前に故郷を捨てて出ていった桃子さんだが、久し振りの帰郷で目にしたのは、変わらぬ雄大な自然と自分の中にしっかりと根を下しているふるさとの言葉。ましてやそこの幼馴染の存在がどれ程桃子さんを勇気づけただろう。改めて桃子さんは生きることへの強さを掴んだに違いない。

 ふるさとの有難さを想い、周造への執着から解き放たれた桃子さんの強さを思う。

ここまで辿り着くのに桃子さんの頭の中にはありとあらゆる思いが巡り巡って、はち切れんばかりの錯綜があったと思う。

 時の流れが喪失の苦しみや悲しみを薄めて流し、愛おしいふるさとの存在に救われ、人は又生きることの意味を再び見い出していけるのかも知れない。

 

 

◆ 【 TK 】

『銀河鉄道の父』の90ページに、このフレーズが出てきた。しかし、行ぐになっている。
東北弁は読みづらくなかなか感情移入までいかない。
50
代で初めて小説を書く講座に行く勇気が素晴らしいと思う。
文章は素晴らしい表現がある。
しかしこの本にはストーリーはなく一生の思い出を綴ったものに感じられる。
寂しい気持ちに吹っ切れて頑張る60代の人は多いと思う。やはりこの歳くらいになると、配
偶者とか親もいなくなりひとりで生きていくようになってしまう。
今迄の甘えられて頼っていた人がいなくなる。強く生きていく覚悟がいる。しかたなくそうな
るとしても、本当に寂しいと思う。でもこの人には、子供とか孫がいるから大丈夫!その年齢に
ならないと感じないことは多いと思う。私も強くならないといけないと痛感しています。

 

 

◆ 【 T 】

桃子さんは自分と年が近いので老いの兆候が自分にもよく当てはまった。頭がおかしくなってきて、もやもやしたり、思考が飛んだり、物忘れしたり……本当に困ったことだ。でも、時にはいいこともある。色々悩んでいたことが何日かしたら、何を悩んでいたか思い出せなくなってくる。物忘れのせいもあるが作者の言っているように、「この世にはどうしようもないことがある。」って分かってきてそれでくよくよ考えなくなっているのかも……。

桃子さんの、「人は独り生きていくのが基本なのだと思う。そこに緩く繋がる人間関係があればいい。」という考えに大賛成。独りで生きるという言葉にはマイナスイメージが付きまとう。孤独死・天涯孤独・ひとりぼっち等々。でも独りだから得られる自由があるし独りじゃないと得られない自由がある。独りと自由は密接な関係にある。

にぎやかな大家族・密な親子関係・仲睦まじい夫婦……それはそれで素敵な関係だが、自分を抑えている人がいてその関係は成り立っているんじゃないかな?本当に自分のやりたいことができているのかなと思う。依存し合うのではなく、自立した人間どうしの関係は桃子さんの言うように基本独りで、緩く繋がる人間関係になってくるんじゃないかな。

桃子のお母さんとお兄さん・桃子と正司〈長男〉・桃子と周造の夫婦……みんな相手のことを思い一生懸命してきたが振り返ってみると、愛情や期待で相手を束縛し、また自分自身をもがんじがらめにして自由に考えたり行動できなくしている。

「いつまでも親だの子だのに拘らない。ある時期を共に過ごしてやがて右と左分かれていく。それでもちゃんと覚える。」いいなあ、こんな親子関係。お互い自立し、いつもはそれぞれ自分の思うように暮らす。しんどくても自分のことは自分でする。でも、なんということもなく訪れおしゃべりできる関係…桃子さんとさやかちゃんのように……いいですね。

  

 

◆ 【 N2 】

これは多重人格の主人公なのかしら?と思ったがどうも違うらしい。夫を亡くし老犬をなくして孤独の日々を過ごす74歳の日高桃子さんの話なのだ。お茶を啜りながら頭の中だけは忙しくあれこれと思い巡らし、耳も正常できちんとねずみの動きを察しているのだが、ねずみのするに任せて身体は坐ったまま動かさない。体力の衰えのためか部屋もごちゃごちゃで言ってみればだらしない。だがそのだらしなさは孤独から来ているのかもしれない。もうとにかく孤独孤独孤独。地にたたきつけられるような孤独と悲しみ。だがそのぐるぐる回る頭の中には随所になるほどそうだなと納得してしまう言葉がちりばめられている。

親子関係は子が成人してからの方が長い。人はどんな人生であれ、孤独である。人にはその人の時間が流れている。人は独りで生きていくのが基本だがそこに緩く繋がる人間関係があればいい。愛という名の下にはどちらも十全には生きられない。いつの間にか人の期待を生きるようになっていた。草の実もイガイガも身に沿うものみな自分。おらに対するおめ。引き受けること委ねること。

「サイの角のようにただ一人歩め」

 

作品は一人称では南部弁、三人称では標準語で語られている。

方言で暮らしていた人が24才で上京し、標準語の世界に身を置いた時間の方が長いのだが、年経るとお国言葉に安らぎを覚え素の自分に戻れる。素に戻った自分の頭の中は方言満載で自分の気持ちを自由に吐き出せる。

方言の持つ豊かさとリズムが作品を生き生きさせてとても面白いのだが、63歳の作家が描いた74歳の孤独のついての老境文学はこんなものかちょっと無理があるのではないか。孤独は年齢と必ず関係するとは思えないのだが。

方言の持つ豊かさは原風景と繋がっている。ある友人の話に、同級生との電話で話が弾むのを聞いていた妻が、誰と話しているのと聞くと、「お国言葉で心置きなくお喋りできる相手」との素敵な返事だったそうだ。

方言の会話の楽しさには標準語しか知らない身は入って行かれないのだ。

桃子さんの原風景には八角山とばっちゃがある。原風景がその人にとって心安まる自分を許してくれる場所というのなら、方言もその一つだと思う。方言で語り合うときそれは同じ時に同じ原風景に身を委ねることだ。

お国言葉を持つというのは、もう一つの豊かな世界を持っているのだと羨ましく思う。

 

 

◆ 【 MM 】

主人公の桃子は夫を亡くして一人暮らしをしている女性だ。ストーリーの中で桃子は桃子が子供のころから  桃子のおばあさんの歳の頃にいたるまで自由に旅する。一人だけれども独りではない。桃子に呼びかけてくる存在がいるから。桃子自ら呼びかける何かもいる。

時代もそうだが、言葉も自由に行き来する。標準語で進んでいると思ったらいきなり東北弁が入ってくる。              

 

しかし不思議と嫌な感じはしないのだ。なぜなのかは最期までわからなかった。これが東北弁の持つリズム  

 

柔らかさからくるものなのか、作者の力なの。

 

タイトルから宮沢賢治に関係があるの?と思ったが中身にもこれほど宮沢賢治イズムが流れているとは思わ

 

なかった。虔十はいきなり出てくる感じ、無理やり突っ込んだ感じがした。ほのかに感じるくらいがちょうど良

 

いのかもしれない。

 

主人公の年齢設定は私より上の世代だった。夫を亡くして一人で暮らす。経験したことがないからどれくら

 

いの孤独や寂しさなのか実際にはわからない。想像してみる。暮らしているのは一人でも、友人や社会との

 

つながりが少しでもあれば独りではない、と思いたい。つながりの一つに読書会があるのかな、とぼんやりと

 

感じた。元々一人で考えたりゆっくりする時間が欲しいので一人で生活したらどのようになるのだろう。一人

 

の寂しさも受け止めながら、

 

  人との触れ合いもありがたく楽しむ自分でありたい。

 

桃子は夫を大切にしながらも、夫がいるからこそ大切にしているからこそ自分を抑えてきた、と表現されてい  

 

た。そうなのかしら。自分を抑えているのは家庭でも社会でもあるだろう。しかしその中でどうやって自分らし

 

くするのかが楽しいのではないのか。その中だからこそできることがあるのになあと思った。

 

この作者はまだまだ伸びしろがある気がした。伝えたいことがたくさんあるように感じる。次回作は出ていな

 

いが出たらぜひ読みたいと思う作家にまた出会えた。今回も個々の感想の幅が広くて参加してとても楽しか

 

ったし興味深かった。今月の作品は人生の先輩の感想が私にとっては新鮮だった。「こんなに甘いもんじゃ

 

ない」のかあ。心して受け止めたい。そうなったら楽しんでやるぞ!とも思った。やっぱり自分が後に残る設

 

定だ。本当になぜなんでしょうね(笑)。