2019年6月                              

課題本『孤宿の人』宮部みゆき/著 新人物往来社

 

 読書会を終えて  

 

                                  講師 吉川五百枝

 

 

 

苦痛や怨念を詰め込んだ長い物語を読み終わった。これだけの、呪い・祟り・恨み・妬み・恋敵・悪霊・殺人・毒薬・惨殺・鬼・怨霊などの文字を並べて、それぞれに当て嵌まる人物や場面を描かれると、「代受苦」という言葉を思い出してしまった。    

 

「代わりに苦を受ける」という意味だと思っている。

 

キリスト教でも使われる言葉だと思うが、仏教でも使われていて「獄苦代受」ともいうそうだ。地蔵菩薩が代表してその菩薩行の徳相を表すとか。

 

この作品で「代受苦」という言葉が浮かんだのは、作中の人物達が、あまりにも多種多様な苦を示すからだ。上下2巻に繰り広げられる「苦」のオンパレードの中身は、多人数を多様に紙数を充分に使って絡めてある。登場者達のそれぞれの姿は、人間の中にうごめく闇のような怪しさを引き受けて、私たち読者に代わって苦しんでいるのではないだろうかと思わずには居られない。人の心の写し絵が連綿と続く。それにしても殺される人数のなんと多いことか。

 

全てが身に覚えのあるわけではないが、これほど多様な殺人や怨念を具体化して突きつけられると、ことによるとやりかねない自分を確かに見る。作中人物が、私に代わって条件を変えながら苦しんでいる。まさに「代受の苦」の展開と言いたくなる。

 

「代受苦」をひきうけてくださる菩薩様方は、慈悲の心を示す菩薩行の一つであるといわれても、徒手空拳の私は、耐えきれないなぁと思いながら、それをただ読み進んで行くしかない。分量の多さもしんどいが、果てしなく続くかと思える恨みや迷妄の量も半端ではなく、しんどい作品であった。

 

登場人物の心の荒びを述べる扇の要に位置するのは、四国讃岐の丸海藩に流罪となった「加賀殿」である。もとは、江戸で有能な誉れ高い勘定奉行職の勝手方を勤めた人物だが、妻子と部下を殺害した咎で 江戸から遠く離れた丸海藩に幽閉される身となった。

 

「加賀殿」は、江戸の評判では「鬼」であった。あこがれと尊敬を受けていたにしても、突然部下と妻子を惨殺しておきながら、この殺傷事件について申し開きをしていない。

 

出世の影には恨み妬みをかったこともあるだろう。

 

〈かった恨みの凝り固まったものに憑かれてしまって、人ではなく何か忌まわしく汚らわしいモノへと変じてしまったのだ〉と、鬼への変化話は、妬みや好奇の心に支えられて巷にひろがったことも想像できる。十一代将軍徳川家斉は、命を絶てばもっと悪いモノになって将軍家に災いをもたらすかもしれないと「加賀殿」の祟りを恐れて、遠くへ流し者にした。流罪は、菅原道真が太宰府に流されたのに始まって、上皇方や天皇の流罪の歴史がすぐに浮かんでくる。流しておいて、その祟りを恐れて祀りあげる例も散見するが、「加賀殿」にはその見込みはない。

 

その「加賀殿」が丸海藩に来るということは、鬼や悪霊が来るということ、災いを運んでくることに外ならない。藩内で邪なことや災いが起こったら、すべて鬼のせいだと思う心の準備をした住民の中に、「加賀殿」は江戸から送られてきた。

 

迷妄は迷妄を呼び寄せる。藩内で事件が起きると〈「これではまるで加賀殿の所行をなぞっているようで」〉と言われるようになってしまった。 

 

住人から、鬼の「加賀さま」と避けられた罪人は、涸瀧の牢屋敷、元の浅木屋敷に幽閉されることになった。この浅木家が跡目相続で揉めている。さらに、藩政転覆の野心も並々ならぬものがある。そうなると刺客や毒殺も避けない我執、我欲のぶつかり合いを見る事になる。伏線に伏線が重ねられ、作者の展開の腕を充分に感じるものになっている。

 

病に見せかけた死や、恋に絡んだ毒殺騒動、敵討ちなど、悪鬼「加賀さま」のかげに隠れて、日頃隠している黒いものが浮き上がってくる。〈もともと内に隠し持っていたものを加賀殿のせいだという口実で外へ出すことができるようになっただけのこと。火元は己だ。闇は外にはない。〉さあれど、人は自身の火が消せない。

 

人の心の闇から来る苦を「地獄のような」と形容する。800ページを費やして、作者は地獄のような丸海藩の騒動を描いた。「代受苦」という言葉を思い出したけれど、作中の人物が読み手に代わって苦を受けていても、読み手の苦を吸い取ってくれて清らかになったわけではない。物語は終わろうとも、今生の心の闇が終わったのではない。だが、その中にあって、重苦しい雲間から射し込むホッとするような2条の光を見る。〈宇佐〉と〈ほう〉という女の子だ。江戸の奉公先から見捨てられ、丸海藩で行き倒れになるところを助けられた9歳の〈ほう〉と、本物の女引手になろうと考えている見習いの〈宇佐〉17歳である。二人とも、過酷な幼少期で肉親の縁は途切れたが、周りには、彼女たちを見守る目が幾つもあった。

 

〈宇佐〉は、〈静かな波の下に思いがけないほど強い渦が巻いていることだってある〉と世の中を見つめながら、常に〈ほう〉のことが気がかりでならない。〈ほう〉は、与えられた場を自分の感覚に従って切り抜けていく。

 

〈鬼や悪霊になるということは、鬼や悪霊の所業に喜びを見いだすこと〉と説く中円寺の和尚の登場は、惑う人々で荒らされた地を撫でてくれる。作者の代理人かもしれない。

 

〈宇佐〉は争乱に巻き込まれて亡くなってしまったが、〈宇佐〉を心に抱く〈ほう〉は、しっかりと自分の向かう方向に顔を向けていることが感じられる。「阿呆」の「ほう」だという名前の謂われを持つ少女は、鬼の〈加賀さま〉に対面しても、自然なふるまいだ。

 

この〈ほう〉に、私は、お地蔵様のイメージをもった。地獄のような怨念や憎み合いが展開する中で、微かながら癒やしの風を放つ。

 

地蔵菩薩が言い習わしでは「おじぞうさん」と呼ばれ、童形で表されることが多い。地獄の(ような)責め苦からの救済を託されていることも、この作品の展開から容易く結びつけられる。延々と続く妖魔の物語に、〈ほう〉というお地蔵さん(のような)姿を見つけて本を閉じることができ、読者の私はやっと一息ついた。        

 

〈ほうは元気で、今日もいちにちしっかり働きます〉

 

「代受の苦」を見せられて溺れそうだったが、お地蔵さんは、今日もすぐ近くで、元気でしっかり働いてくださっているのだろう。

 

 

 

 

 課題本『 孤宿の人 』 三行感想 

 

 

 

◆上下巻の長編,気持が途切れること無く読んだ。不安定な幕末、悪鬼、悪霊と噂される幕臣加賀様が丸海藩に送られ、幕府の直轄領としてねらうお上と丸海藩で発生する毒死、殺人。純真無垢な女の子ほうを軸に、個性豊かな色々な人物が行動、最後そうだったのかという老練な医者たちとの画策。何と構成力のうまさだろう。宮部みゆきの本は面白い。 【YA】

 

 

 

◆私の苦手な時代劇。しかし読みやすかった。時代劇特有の言いまわしが理解しにくい。ほうの「(阿)呆」が「方」となり「宝」となる。身分が低く、何もわからない女の子の方が謙虚で愛される者となれた。 【TK】

 

 

 

◆ストーリーに惹かれて、スムーズに読めた。加賀様、ほう、宇佐、……の事。読む人により違うことがおもしろかった。「宝」は地蔵様。納得。 【KT】

 

 

 

◆苛酷な運命に翻弄されてきた“ほう”。一生懸命働き、素直な目でまわりの人を見つめ、心を通い合わせてきた。“ほう”は たくさんの人に助けられ成長してきたが、助けた人も“ほう”から たくさんのやさしさや感動を受けとってきた。 【T】

 

 

 

◆面白いの一語に尽きます。本の厚さ(上・下)にめげないで下さい。

 

主人公は“ほう”と言う少女{呆(親のつけた名)→方→宝}へと運命に弄ばれながらも素直さ 一途に生きる姿に涙します。実在した藩のお家騒動がベース。推理作家らしい筋の展開 時間を忘れます。 【K子】

 

 

 

◆上・下巻という長さが気にならないほど 熱中して読んだ。他の参加者もおっしゃっていたが、時間を忘れて読みふける幸せを味わえた。時代小説は苦手だと思っていたが、これを読んでその偏見を払拭します! 【MM】

 

 

 

 

 

 課題本『 孤宿の人 』 感想 

 

 

 

◆◆◆ 【YA】

 

時は幕末、金毘羅で置き去りにされ讃岐丸海藩の医者井上家に先ずは保護され奉公する女の子ほうが、色々な先々で過酷な生活に翻弄され乍らも関わりを持つ人々との触れ合いの中で、違う世界を見出していく事を軸に話は進んでゆく。その頃、江戸で妻子や部下殺害等で悪鬼悪霊と恐れられた幕臣の加賀さまが丸海藩預りの身となる。これを契機に藩内で不審死、殺人事件が多発し、藩の人々は加賀さまを元凶と見做し恐怖する。こんな中、若い引手見習いの女性宇佐の活躍が光る。宇佐の人間的なやさしさ、若き故のほとばしる真っ直ぐな気持や苦悩する姿が痛々しい。沢山の登場人物が出てくるが、それぞれの生活の場所で、精一杯生きているのが気持がいい。中でも中円寺の和尚と裕福な商家の弟には頭が下る。井上舷洲先生の計らいで加賀さまが幽閉されている枯滝屋敷に奉公することになったほう。折しも藩内で漁師方と町方で大きな騒動が起り逃げた先が加賀さまの居室のした、これがきっかけでほうは彼から手習を受け、自分の名が書け、新しい漢字を覚えていく。ほうは違う世界を感じたとある。命令され従い自分の無かったほうが生活とは直接関わりの無い自分のものとして字を書き、次々と新しい事を覚える高揚感は計り知れない。私の中では一番好きな場面だ。季節は夏、丸海藩は雷獣と言われる程雷の被害は大きいらしい。藩の騒動の中火の手が上り家々は炎に舐められ、そこに雷が加わり町は大惨事に。涸滝の屋敷にも大きな落雷が。加賀さまはハタと気が付きほうをにがす。雷獣と化す惨事の中、戦いの中で加賀さまは命を落とす。加賀さまの死に幕府からの咎めも無く悪霊を恐れられていた彼は雷獣と戦い鎮めた事で人々から反対に崇められることに。丸海藩は今までのような穏やかな生活が戻ったことだろう。舷洲先生から一枚の紙がほうに渡される。加賀さまが書いたほうの名宝。ほうの名は宝のほうだと。涸滝に落雷するように仕掛けた舷洲先生、砥部先生、それに気付いて覚悟していた加賀さま、ことを穏便に図る為の老練な医者たちの画策。姉の様に慕っていた宇佐も命を落とし加賀さまも亡き人に。ほうは教わった字で自分の思いを、二人に書いて届けることが出来ただろうか。上・下巻の長編、気持が途切れることなく読みすすめたのは、構成の力、仕方、思い入れる人物が登場し、最後はこうなって欲しいと願っている自分があるのかも知れない。                                     

 

 

◆◆◆ 【MM】

久しぶりに「はまる本」に出会った。

上下巻でページ数はかなりあったが読み始めると時間を忘れて読んだ。出席者からも同じような声があがった。何にそんなにはまってしまったのだろう。ほうのまっすぐさとか濁りのない気持ちに心打たれたのだろうか。ほうの良さがまぶしく感じられたのもあるが、ほかの登場人物が持つ心の中の闇の部分がうまく描かれていて、それに引き込まれたのかもしれない。恋愛と結婚、昔ながらのお家の事情も絡んで殺人事件がおこり、それと丸海藩の行く末もあわせて目が離せない展開がたくさんあった。

今回読書会に出て「ほう(これは感嘆の言葉)」と思ったのは主人公のほうが人間ではないかもしれない説が出た時だ。そんなことには思いが及ばなかった。

でもそうだとしたらすべてのことに合点がいく。どうしてあんなにピンチを切り抜けられたのか。文字通り神がかったとしか言えない。ほうが神様やお地蔵さまだったからこそ切り抜けられたのか。みんなが助けてくれるのはほうの人柄だからこそだと思うのだが、「人がよかったから助かった」とだけでは言えないような神展開が何回かあった。

最後はほうと匙の家の人が残った展開だった。悲しいし寂しいれけど最後まで感動しながら納得して読むことができた。

今だから言える恥ずかしい話をひとつ。時代小説を読みつけていないので、私はすっかり「手引」や「匙」が実在する職業の呼び名かと勘違いしていた。当日持参した参考資料も江戸の暮らしに関するものが多かったのはそのためだ。いくら探しても言葉がなかったのは作者の創作だったからですね。宮部みゆきの世界にすっかりはまってしまった。時代小説の読まず嫌いも改めようと思う。

今回の本も課題本でなければ手に取らない本だった。こんなに面白い展開が広がる本と出会えてよかった。本の面白さもさることながら、今回も出席者の感想がいろんな方向、自分が感じなかったことも気づけたのでまた引き出しが増えた。時代の流れに翻弄されているように見せてしっかり舵をにぎっている匙家。現代社会でもそんなことが垣間見える気がする。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆ 【SM】

 

作家・宮部みゆきが頭から離れない。彼女に憑りつかれてしまったのか。ううむ……。

 

次本の文字が素通りするので、『孤宿の人』の「魅力」を考えてみることにする。

 

「あとがき」に<丸海藩のモデルとなったのは讃岐の丸亀藩です。もともとこの作品の発想の素は“妖怪”の異名で知られる幕末の幕臣鳥居耀蔵が、罪を受けて讃岐丸亀藩に永預となり明治元年に大赦を受けるまでそこで流人生活を送ったことにありました>とある。

 

まず時代は江戸時代である。封建時代、どんなに心の温かい庶民も権力に対しては(現代以上に)無力であり、理不尽も非人間的な扱いも苦渋も強いる状況を見事に描いている。それに作品の舞台を讃岐の丸海藩に設定し、加賀さまを言うに言われぬ理由で幽閉となり讃岐に流刑となった人物として設定し、そこに丸海藩の存続を総てに優先させ自藩存続のためには手段を選ばず、不祥事は徹底的に隠蔽し、そのために藩内で生きる人々に理不尽な犠牲を強いていく、そんな組織の非業さ非情さがリアルに描かれている。だからこそ、仏様(私は観音様を連想)を感じさせるほうを設定し、井上舷洲の娘琴江や引手見習いの宇佐、加賀さまとの心からの交流を主軸とすることで温かな人情を描き、読者を魅了する。

 

社会派と謎解きと時代小説の善さを存分に活かした「社会派時代ミステリー」と私は名付けたい。 

構想力=「社会派時代ミステリー」としての魅力

 

 

 

題名の妙。「孤宿」は広辞苑になく宮部の造語。読者は「孤宿」とは何だろうかと物語に引き込まれる。意味は“ひとりぼっち”。ほうも宇佐も加賀さまもひとり暮らしの身の上。

 

書出しと締めの言葉の妙。<ほう、ごらんなさい。風はこんなに静かなのに、海には白い小さな波が、たくさん立ち騒いでいるでしょう。ああいうとき、この土地の者は“うさぎが飛んでいる”というのよ。うさぎが飛ぶと、今はお天気がどんなに晴れていても、半日と経たないうちに大風が吹いて雨が来るものなの。……遠目で見ると、小さくて白くてきれいなうさぎだけど、それは海と空があれる前触れなのですよ>(上巻p7)と語りかける琴江の言葉には慈愛が満ちている。この言葉には伏線がある。書出しの一文が、<夜明けの海に、うさぎが飛んでいる>(上P7)というものであり、この琴江の言葉そのものが、これから起こる様々な事柄の全体を暗示させるものになっている。また、締めの言葉が、<青く凪いだ丸海の海原は、鏡のように平らかに穏やかに、秋の日差しの下で憩っている。ほうの挨拶に応えて、おはよう、ほうと返すように、ちらり、ちらりと白うさぎが飛んだ>(下巻p422)となっている。

 

つまり物語は、海に白いうさぎが飛んだ時から始まり、「ほう」に心優しくかかわる人達が次々と殺され、理不尽なことや非人間的なことが累々と重なり、海が凪ぐまで、これでもかと襲ってくる嵐のような波瀾に満ちた展開である。 

構成力=長編を退屈させない魅力

 

 

 

登場人物の魅力。宮部は主人公を「阿呆のほう」という名前とし,周りの人々との交流の中で成長していく様を丁寧に描く。

 

死んだほうが良いと望まれ余計者として扱われ、虐げられて育った「ほう」は、読み書きも数も教えられず、生まれながらに世間の荒波にもまれ続けた。ただ大人の思惑と運命に翻弄されながらも、幼いほうの心は純粋無垢で律儀で健気に生きるのである。だからこそ読者の心を鷲づかみにし、何とか次こそは幸運なことが起きますようにと願いながら読み進める。

 

丸海藩、特に井上家の娘琴江は、心優しく温かく色々なことを教えた。ところが藩医を務める「匙」家の娘美祢の嫉妬によって、琴江は毒殺されてしまう。しかし藩内のごたごたが外に出ることを恐れ決して表に出してはいけない事件として処理され、隠蔽されていく。何事にも鷹揚で人々から慕われる井上舷洲も、心優しく優秀な若い医師である兄の啓一郎も、涙を呑んで、藩と家のために琴江の死を病死としなければならなかった。ほうも沈黙を強いられる。

 

次にほうを引き取ったのは、引手見習いの「宇佐」という、ひとり暮らしの若い娘だった。

 

琴江の死の謎や加賀さまの幽閉問題で右往左往する藩内の事態に、宇佐の明瞭な判断で関わろうとすることで物語が展開するので、宇佐はもう一人の主人公でもある。

 

<宇佐は手を伸ばし、ほうの手を握ってやった。小さな手は冷たかった。…(中略)「おまんま、いただけないんです」「なんでさ」「あたし何も働いてないし。あたしのような余計者は、働かなかったら、おまんまはいただいちゃいけないんです」>(上巻p135) こういうたおやかな言葉を紡ぎだせる宮部の筆致の技量の豊かさに脱帽せざるを得ない。

 

この幸せも束の間、ほうは悪霊だと恐れられている「加賀さま」のところに下働きの下女としていくことになる。涸滝の牢屋敷で屋根の上にうごめく刺客を見、怖くなって軒下に逃げ込み、行ってはならないと言われていた奥座敷の「加賀さま」の部屋に出てしまう。そのため、ごたごたを隠蔽しようとする藩の要職によって亡き者として殺されようとする。

 

だが刺客騒動の中で直接「ほう」に出会った「加賀さま」がもう一度ほうに逢いたいと言い出したことで救われ、やがて手習いや算術を習うようになる。名前を「方のほう」として導かれる。

 

藩は厄介払いも含めて、その悪評の根源である「加賀さま」ともう一つの悪である雷害をもたらした雷獣が闘い、加賀さまが身を挺して雷獣をやっつけ、それによって加賀さまが神になったのだということで幕府への言い訳も立つように画策する。加賀さまは全部承知の上で自ら死地に立つが、ことが起こった時、ほうには逃げるよう命じるのだった。最期に託した手紙には、ほうの名前を「宝のほう」として。「宝となったほう」を、読者は「これからは一瞬でも幸せに」とひたすら祈るばかりである。 

筆致力:登場人物の心の奥底まで語ろうとする魅力

 

 

 

 このように『孤宿の人』は、宮部みゆきという作家の優れた「構想力」と「構成力」と「筆致力」という才能がいかんなく発揮された傑作で、読者である私を魅了し憑りついたのだろうと想い到ったのである。