2020年2月                           

課題本『ねずみ女房』

 

ルーマー・ゴッデン/著   ウィリアム・ペーヌ・デュボア/

 

石井桃子/訳        福音館書店

 

 

 読書会を終えて 

 

                     講師 吉川 五百枝

 

 

 

自力では地球の重力に抗えない人間にとって、空に浮かぶ鳥の姿は、悠々と飛び回る「自由」の象徴のように見える。実は、鳥が飛んでいるのも重力には勝てず、様々な条件に縛られているそうだが、それでも、人は、鳥が地上に縛られているのとは異なる世界に居るように仰ぎ見ている。この作者も、鳥に自由の象徴のような思いを抱いているのかと思う。

 

 『ねずみ女房』が邦訳されてから40年以上経つ。

 

初版が出た1970年代、フェミニズムの波が高まってきていた。家事のみに明け暮れる“女房”が、どんな思いをして夫に唯々諾々と従って来たかという“女房”になった女性の立場や、それに飽き足りず、もっと別の生き方を求め始めた女性が、その似姿を、『ねずみ女房』に見ていたように思う。殆ど喝采を送るに近い読みだっただろう。

 

「女房」という呼称はしっくりと来ないものの、作者は最初に〈女房ねずみ〉と言って結婚していることを示し、それ以後は〈めすねずみ〉と表現している。

 

作者のルーマー・ゴッデンも、訳者の石井桃子も、共に1907年の生まれである。イギリスと日本の違いはあっても、第2次世界大戦を30代後半でくぐり抜け、それから起きた思想の波をたくさんの著作や翻訳で表現し続けてきた。

 

両者共に作品が多く、題名はわかるものの、内容は忘れているものがほとんどという為体になってしまっているが、その中にあっても、この『ねずみ女房』は、はっきりと記憶に残っている。キジバトの話にあこがれるめすねずみの心情が忘れがたい。

 

今回は、全体を「異質性」を鮮やかに示してその意味を語る作品と捉えた。

 

そのために先ず1行目に、「わたしは知っているのです、こんなめすねずみのいる事を。」と書き加えて読み始めるのが都合が良かった。

 

このお話に、第一人称「わたし」で登場するのは、作者である。「わたし」の視点から見えるねずみ家族であり、ハトなのだ。「わたし」は、彼らを外から見る位置にいるのだから、「異質のもの」を対比させて描くことができる。ハトとめすねずみは、知っている世界が随分異なっていた。ねずみ集団だけでは、自分が飛べないねずみであることを知ることができない。このめすねずみは、ハトというねずみとは違う属性をもつ存在と出会うことによって、飛ぶという全く異なる世界があることを知ったのだし、ハトを知らない雄ねずみが、チーズだけに夢中になっているのも仕方が無い。

 

異質であるということが、どんなことであり、どんな働きをするのか、それを作者は対比するものをいくつも挙げながら話を進めて、めすねずみとハトの異質性を補強する。

 

これ以上を望まないことと、まだ持っていない何かを望むこと。籠の中と、窓の外。飛ぶものと、飛べないもの。耳を囓るものと、囓られるもの。扉を開ける力を持つものと、力を持たないもの。楽しみを閉じ込めることと、放して失うこと。飛び去るものと、残るもの。不思議なものと、不思議じゃないもの。ハトから聞いた山川の話と、自分の力で見た遠くの星。ハトだからこそ見た畑を吹き渡る風と、めすねずみだからこそ聞いた風の音。

 

これらは、作中ではどれも入れ替わることは無いし、混ざることもない。そのことによって差異が映し出され、異なるものとしての他を知る意味に気付く。

 

ねずみとは異質のハトに心惹かれるめすねずみの気持りが、「わたし」の視点から描写されていく。人間界では、心惹かれる異質な存在の代表は、男と女だとすることが多いだろう。だから、この『ねずみ女房』は、「不倫小説だ」とか「姦通小説だ」などという評が最初から何回か出てきて、そのたびに、おもしろがって仲間内で話題にした。

 

たしかに、男性と女性は異質と言えるだろう。だが、同じヒト科の中の話だ。この作品に登場しているのは、鳥綱ハト目のハトと、哺乳綱ネズミ目のねずみである。作者である「わたし」は、同じヒト科の中の異質より、ハトとねずみの方が、よほど異なりようが大きいと知っている。不倫だの姦通だのと小さなヒト科の出来事に合わせなくても、「異質なものに出会う」ということが、人間生活にとって、どんなに魅力的なことになるかを語ったほうが、はるかに心を解放する。

 

このめすねずみは、飛行機に乗らなくても、飛ぶということをハトを通して知った。飛べない自分とは異質な「飛ぶ」存在があり、それは、ねずみの視界とは違う風景を見させるのだと知ったのだ。作者は、めすねずみの価値観を大きく膨らませた。

 

人は、いくら努力しても、現実の身では叶わぬ事にとりまかれている。その不自由さは、籠の中のハトに似ている。作品ではハトは放たれた。せめて、ハトを自由にさせたかった作者の気持であったろうか。残されためすねずみは、大事なハトを逃がして失うことになる。ハトは、戸を開けてくれためすねずみに目を向けることもなく飛び去った。ハトは ハト本来の自由を得た。自分が自分の主人公になったのだ。その時、めすねずみは、自分の目で星を見ていることに気がついた。めすねずみが星を見て〈はとに話してもらわなくても、自分で見たんだもの〉〈自分の力で見ることができるんだわ〉と、自分の誇らしい転換点として表現したのは作者の真骨頂と言えるであろう。

 

ハトは飛ぶことによって、めすねずみに自分が自分の主人公なのだと伝えた。めすねずみは、「自由(自らに寄るのではなく、自らに依るのではなく、自らに由る)」である自分のねうちに気付いたのだ。なにがあってもなお、耐えて立ち上がれるのは、そこにある自分のねうちに気付いた時だ。

 

ハトを束縛の籠から逃がしたという思い出に浸るだけでは、めすねずみの一生を支えきれない。老いためすねずみは、ほかのねずみと似たような暮らしをしてきたことだろうが、他とは異なる「自らに由る」生き方を知っていただろうと思う。

 

〈 ほかのねずみたちの知らないことを知っているからだと、わたしは思います〉。

 

という最後の行に、「そうですね、私も、「自由」を知る“ねずみ”がいる大きな世界を知りました。」と作者に共感することができる。

 

(目視を容易にするため「はと」を「ハト」とカタカナ表記にして使った)

 

 

 

 課題本『 ねずみ女房 』 三行感想 

 

◆ 【 YA 】

  カゴにとらえられた姿に、ねずみは悲しみと不自由に心動かされ、ここから鳩との関わりが始まり、未知の

ことをすることの大切さや必要性を、そこから広がる知識の広がり。

  最終的には矢張り知ったことを自分のものとし自分の努力や力で出来ることを知ったねずみ女房は生きて

ゆく者の模範。

 

◆ 【 TK 】

 これが全世界だと思っていたのが ある日 他の世界を知ることによってしまって充実していた生活以上の

 ものを浴するようになる。でも何がほしいのかわからないだけでなく、家のことであまりゆっくり考えるひまもな

 い。私達も同じである。満足することは難しいものである。

 

◆ 【 KT 】

  ねずみ女房は自分の値打ちを見つけたために豊かな暮らしができ、子孫から敬われて過ごした。最后の

「わたしは思います。」の意味もわかった。ストーリーの深さ、いろいろの意見が聞けて楽しかった。

 

◆ 【 E子 】

 「女房」という位置にいる「ねずみ」が、自分の存在価値に自分で気付き行動することができたのは、「知る」

 喜びを感じたからだと思います。自分にとって知らないことを知ることは年を重ねても嬉しいことです。ねずみ

 女房が心豊かになれたことを「~わたしのねずみは、だしてやらなくてはいけないと、わたしは考えました。

 ~」から感じました。

 

◆ 【 T 】

 何か充たされない思い、自由な世界へのあこがれを持っていたねずみ女房はハトと出会い自分の求めてい

 たものを知ることができた。できればこのまま自由な世界にふみ出してほしかったが、知ったというだけでも彼

 女の世界は大きく広がり、これからの生き方に大きな影響を与えたと思う。

 

◆ 【 N2 】

 48ページの作品に込められた沢山のキーはそれぞれの見方で何通りにも考えられる。薄いけれど読みご

 たえのある本でした。

 

◆ 【 K子 】

 児童文学の様ですが…違ってました。とてもとても奥の深い作品でした。読者の考え方でいか様にもとれる

 作品です。私の生き方にも刺激を受けました。たかが本、されど本です。

 

◆ 【 F 】

 昔話のようなタイトルだと思って読み始めると、家庭を持ち毎日生きているメスネズミの話。本の厚さからは想

 像していなかった濃い内容でした。読書会に参加するまでは自分とネズミを重ねて読んでいましたが、皆さ

 んのお話を聞き自分を深める中でハトの方に自分をみいだすようになりました。

 

◆ 【 TM 】

 ねずみ女房の姿に女性が家事や育児を担い、閉じた世界で耐えることを強いられていることを感じました。

 そのなかではとの存在が未知の世界を知ることは生きて行く上での財産となることを伝えているように伝えて

 いるように感じました。

 

 

 課題本『 ねずみ女房 』 感想 

 

 

◆◆◆【 C 】

  <めすねずみには、何がほしいのかわかりませんでした。でも、まだ、いまもっていない、何かが、ほしかったのです>

  (ねずみの女房のおるべき場所は、巣のなかだ。というおすねずみに対して)

 <めすねずみは答えませんでした。めすねずみは、遠くを見るような目つきをしていました>

  なぜだろう。私たちの日常に近い具体的な小説よりも、ねずみが主人公の童話のような話の中に、とてもリアリティーを感じる。短く、言葉少ない物語の中で、めすねずみのもどかしい気持ちがよくわかる。

  児童文学って不思議だ。心の核を取り出して、物語を綴っているような気がする。

  ねずみ夫婦の住まいが、<バーバラ・ウィルキンソンさんという、独身のご婦人の家>というのもなにか意味がありそうでおもしろいと思った。めすねずみは夫を持ち、子どもを産み、育て、家族の生活を守り、支えて生きている。ウィルキンソンさんは(おそらく)決まった伴侶はなく、子どももおらず、自分の生活を守って生きている。ねずみと人という違いはあるものの、女という点でつながっていて、生き方という点で異なっている。

  ふたりの女は、四季で変化する外の世界を眺めながら、一方のめすねずみは<そういうものが、何なのかわかりませんでした>。ウィルキンソンさんはもちろんわかって眺めていただろう。家から見える同じ外の景色。立場の違うふたりの女は、一人はその景色に慰めと安らぎを、もう一匹は何かが欲しいという渇望と孤独を感じていたように思う。 

 

 <ウィルキンソンさんは、お砂糖のかたまりと、あぶらみをつるしてやって、「さあ、これで、おまえさん、何の 

不足もないはずですよ。」といいました>

 ウィルキンソンさんの言葉が、おすねずみの言葉と重なる。

 <「これいじょう、何がほしいというんだな?」>

 ウィルキンソンさんは、最後まで、このはとのいるべき場所がわからなかったし、おすねずみはめすねずみの孤独がわからなかった。囚われの身であるはとの気持ちにより添えたのは、めすねずみだけだった。めすねずみも囚われの身だったからか?家庭という檻に。だからはとのいるべき場所が、わかったのか?いやちがうだろう。めすねずみにとって、家庭は土台だった。しかし孤独だった。めすねずみが何かを求める気持ちを理解してくれる他者はいなかったから。カラカラに乾いた孤独。だからはとの、外の世界、未知なる世界を伝える言葉が、めすねずみの心に染みこんだ。

 臨場感たっぷりに、はとが飛んでいたときに見た景色を話すのをきいて、<いつも低いところを、こそこそ走りまわってばかりいるめすねずみは、まるでしっぽの先で立って、きりきりまいでもしたように、目がまわってくるのでした> 。何だかわからなかった世界が、わかりはじめた瞬間。ものすごい衝撃だっただろう。そして孤独だっためすねずみは、世界の片隅と繋がることで、孤独ではなくなった。そしてその世界に自ら一歩踏み出した。はとを逃がすという行為によって。はとを逃がすことがどんなにつらいことだったかは、40〜41ページの挿絵が見事に表現している。

 手に入れた世界の扉、というべきはとを自ら失うことは、大きな犠牲だっただろう。しかしそれによって、めすねずみは星を得た。自らの力で、得た。

 <わたし、自分の力で見ることができるんだわ>。自分を誇るという気持ちは、なかなか持てないことだ。その行為が、ほかの誰にも知られないことであればなおさら。でもだからこそ、めすねずみは、内なる星を得た。自らの中に、欲しかった何かを見つけたのだった。

 

 

◆◆◆【 YA 】

 

 このねずみ女房は、家族のため食料を求めて昼夜を問わず走り回り、イバっている夫に文句も言わず動き

 

 回る。典型的な良妻賢母だ。

 

 ひょんなことから、ある家のカゴに閉じ込められている大きなはととでくわす。

 

  はねがカゴの格子に当たり、羽ばたくことも出来ずに沈み込むはとの姿に、自由に走り回れる自分と比べ

 

て、何かを感じたのだろう。

 

度々はとの所に通い話を聞くうちに、めすねずみの生活には無い世界があることを知る。

 

 森や木や庭や広い空、風が麦の上に波をえがきながら吹き、木の種類によって違う音を立てること、雲を吹

 

き飛ばして空の遠くへ追い払ってしまうなど、はとの臨場感あふれる話を聞いて、めすねずみはどんなにか

 

心が高揚したことだろう。

 

 ところが、めすねずみの都合でしばらくはとに合えず、しばらく振りに合った時、はとは訴えた。何処かへ行

 

ってしまったと思ったと。

 

 やせてみじめになったはとの姿にめすねずみは涙したが、この涙は、はとが待っていてくれ、頼りにされて

 いる嬉し涙でもあったかも知れない。

 

こうこうと月のさす夜、昼間のように明るく、しかも奇妙な明るさに、ねずみの頭はくらくらし、しっぽはふるえ

 

ひげは引きつれる。はとを見に行った時、森の木の梢が見え、以前はとから聞いていた森や木々や庭がは

 

っきりと理解出来、今はとをカゴからとき放す決行の時だと悟る。

 

 小さな体の細い足でふんばり、体を精一杯伸ばし、歯をくいしばって、カゴの鍵を下ろすめすねずみの様

 を、はとが不安そうに見守る挿絵は、とても切なく泣けそうになる。

 

戸が開き、逡巡しながらも、上へ上へと飛び立ってゆくはとを見つめ「これが飛ぶということなんだ、自由とい

 

う行動なんだ」とめすねずみは自分の目で見て理解する。

 

 はとが飛び立ったあと、はじめて輝く星を見たとき、庭や森よりも遠いその向こうの一番遠い木よりも遠くある

 

ものだとめすねずみは気付く。

 

 このあとに続く文が全てを物語っているのではと思う。

 

   「でも、私に見えない程、遠くはない」めすねずみはいう。あたらしいボタンではないとすれば何か遠いふし

 

ぎなものだと思う。

 

  「でもわたしには、それほどふしぎなものじゃない。だってわたし見たんだもの。はとに話してもらわなくても、

 

わたし自分で見たんだもの。私、自分の力で見ることができるんだわ。」知らないことを知る喜び。それを自

 

分で習得して可能性が広がること。生きてゆく上で、とても大切なことと思う。

 

 めすねずみは孫やひ孫に囲まれて穏やかに過ごしているが、彼等にはととの出合いや広い世界があること

 

を話して聞かせてやっているだろうか。それとも若き日の思い出として自分の胸のうちに秘めたままにしてい

 

るだろうか。 

 

 

◆◆◆【 TK 】

 

 ねずみ女房さんは食べ物も家庭も家もある幸せな奥さんである。しかし、鳩と出会うことで知らない世界を

る事となる。

 ねずみ女房さんは外の知らない世界を知りたくて憧れている。そして鳩の望みそうな食べ物をあげるのだ、鳩にとっては嬉しいものでもない。

 ねずみにとって嬉しいことと鳩にとって嬉しいことは食い違う。

 ねずみ女房さんは満たされない何かを鳩を通して自問する事になる。しかし、ねずみ女房さんは家の雑事に追われてそれを追求する暇もない。

 しかし、ねずみ女房さんは自分のそんな気持ちを脇において、鳩さんを自由にかごから出してあげる事に尽くしてあげている。そして鳩さんが居なくなるとまた自由の家 庭に戻っている。鳩さんから聞いた遠くの世界のお話を糧にしながら。

 私達も遠くの世界を夢見ながら現実の家庭に縛られている。かなわないと思っていても自分より他の人の願いをかなえてあげる勇気も失わないようにしたい。幸せは自分の願いより人の願いに注目して支えてあげることからも生まれそうである。

 

 

◆◆◆【 N2 】

 

  知るは喜びである。

 

 確かに知らないことを知った時、「えーそうなのー」と嬉しくなるのは私だけではないだろう。 このねずみ女房も知る事のうれしさを知る前と、知った後では人が変わってしまった。いや、ねずみが変わってしまったのだろう。

 脳は生きている間じゅうその能力を使いたいのだろうし使うべきだ。そしてその脳は知識という栄養を取りたがるものなのだろう。

 ねずみは雄ねずみにこれ以上何がほしいのかと聞かれても、何とは言えないのだが何かが欲しかった。つまり食物だけでなく、何かを知ることという栄養を求め飢えていたのではないだろうか。 そこへ知らない事を話してくれる鳩がやって来て平凡に暮らしていたねずみの飢えた脳に栄養と喜びを与えてくれたのだ。この鳩は矜持として与えられた餌は食べないのかと思ったが、どうもそうではなく今までと同じものを食べたいだけに思われる。ねずみが訪ねて行かない間に何も食べず力も尽き果てんばかりになり(ご婦人は餌をやっていたはずだが)、ねずみが来たときに優しくキスをするのは大人同士の愛情表現ではなく、寂しかった子供が母親に頼るような、甘えるようなものに思われる。大人になった鳩ならどのようにして鳥かごから抜け出すか、どのようにして以前のように大空を羽ばたく暮らしに戻ろうかと考え努力するのではないか。しかし自分では何もせず最後には、鳩の居場所はここではない広い世界に戻るべきだと考えた優しいねずみが、歯を痛めながら開けた扉から開けてくれたねずみには目をむけずに飛び去ってしまった。

 はたしてこの雄の鳩は何だったのだろう。ねずみの聞きたがる広い世界の話しているだけで、ねずみの暮らしや思いに耳を傾けようとするでもなく、ねずみの持って来てくれた食べ物の中から好きなものだけを食べる。ねずみに新しい世界を教えたのだが自分勝手ともいえるし、優しさを抱いているわけでもない。ねずみは必要とされることに喜びを感じ度々涙を流すが、それは哀れみの涙から大切なものを失った涙へそして星という知らない世界を自分の目で見た時の喜びの涙へと変わっていった。雄ねずみも雄鳩も自分では餌を探そうとせず、雌ねずみに餌を調達させるだけでねずみ女房はいつも他を世話する存在のままである。ただ知るという喜びを知ったねずみとして年を重ねていくことで救われる。

 読した時は、なんとロマンチックな物語。人生に一度でも胸キュンの思いがあれば人生を全うできるということかと思ったが、再読すると違う思いがわき上がってきた。遠くにあるもの、手に触れる事の出来ないもの、広い世界を知ったねずみは知らなかったねずみとは違う世界に落ち着いている。短い作品だが、短い故に何度も読み返しその度に違う感想を抱いてしまう。 おすすめのほんです。

 

 

◆◆◆【 MM 】

 

 今月の課題本は児童書か…。と軽い気持ちで読んだら前の課題本の『雪のひとひら』と同じくらい深く読み

 

ごたえがあった。すぐに思ったのが「これはねずみの話だが完全に人間世界にあてはまる話だ!」。

 

 ねずみ女房ははとと接することで自分が今まで知っていた世界よりさらに広い世界を知ることとなる。外の世

 

界と自分がいる世界、自分がいる世界に一緒にいるおすねずみはねずみ女房を小さい世界に囲おうとする。

 

 しかし外の世界を知ってしまったねずみ女房はどう生きるのか。はとの幸せを願うねずみ女房の行動に涙が

 

こぼれそうになった。

 

 今月は出席ができなかったので会の終了間際に少しだけ参加者の話を聞くことができた。

 「おすねずみがねずみ女房の耳にかみついたとき、ねずみ女房の気持ちはどうだったのか」。わたしの考

えは「失望」、これに尽きる。帰りが遅くなったことを尋ねるでもなく、耳をかむ。どうして遅くなってしまったのか

おすねずみに説明する気にもならない。きっとわかってくれないからだ。こういうことは価値観が違う者同士が

一緒に生活していたら驚くほど珍しい場面ではないように思う。しかしこれほどうまく書くことができるのがさす

がだなと思った。

 1977年の出版であるが今の私にも新鮮に響いてくる。こういう本に出合うと文学っていいなあと心から思い

うれしくなる。

 最後の星が見えたところで「星は遠いところにあるけれど見えないほど遠くはない」とねずみ女房が思ったと

ころもすごく好きな場面だ。この前向きさがあればどんな状況でも小さな希望を見つけて乗り越えることができ

るだろうと思った。ねずみの話ではあるけれどもまっすぐ自分に響いてきた。そしてねずみ女房から大切なこと

を再確認させられた。私もどんな状況でも小さい希望を見つけられるような自分でありたい。