2020年8月                           

    課題本『モーツァルトはおことわり』    

マイケル・モーパーゴ/作  マイケル・フォアマン/絵  さくまゆみこ/訳  岩崎書店

 

 

                      読書会を終えて 

                    講師 吉川 五百枝

 

第2次世界大戦下のドイツを牛耳っていたナチスの残虐な行いは、これまで、本でも映画でも夥しい数のものに触れてきた。特に、ヨーロッパ各地にあったユダヤ人強制収容所については、何が行われたかを詳しく検証する書物も出版されている。

この『モーツアルトはおことわり』も、ナチスの文化政策に痛めつけられた演奏家の過去の記録の形をとっている。

ヒトラーが、ドイツ精神を高揚させる音楽としてワグナーの演奏を好み、戦時の映画の画面からは必ずといっても良いほど大音響で流されるが、そうではなくても、ナチスの将校や兵士の周辺から、音楽が流れてくる場面はよく見かける。夜の静寂の中で口笛やバイオリンで奏でている。音楽の好きな軍人もたくさんいただろうことは、ドイツ音楽の豊かさを考えれば、その土壌として容易に想像が出来る。

ナチスにも音楽好きはいた。同様に、ユダヤ人にも音楽好きはいた。

アーリア系であろうと非アーリア系であろうと、モーツアルトの曲から、明るさや調和の心地よさを感じるのは人種には関係がない。音楽は、そういう国の区分けや収容所での支配被支配の立場などに縛られない力を持っている。

しかし、その音楽の力を利用して、人々を思うように支配したい人が現れる。戦争に国民を動員したい人達だ。ナチスも大いに利用した。

この作品には、音楽好きな自国民ではなく、強制収容するユダヤ人と同じ収容所のユダヤ人に演奏させたという事実が記されている。目の前の強制収容所が、集団虐殺など思いもよらなくて、まるでモーツアルトの曲のように明るくて希望を感じさせるような場所だと欺くためにオーケストラを結成させた。

1942年から1944年まで、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所では、少なくとも2つの楽団があったと記録されている。その記録の中に「ガス室送りの選別で疲れたときは、モーツアルト以外はだめだ」という当時の楽団指揮者の証言がある。

題名が、なぜ「モーツアルトおことわり」なのか、なぜモーツアルトの演奏をするのも聞くのも嫌だという父親を登場させたのか、そのわけは、こうした事実の認識があったからだろう。

物語には、主人公となるユダヤ人の少年や両親が登場し、少年にバイオリンの指導をした人物が、かつてナチスのユダヤ人強制収容所で両親と共にオーケストラの演奏をした仲間だと

いうことも解ってくる。その3人が後日出会うがそれは奇蹟に近い。それだけ大切なエピソードではあるけれど、この本全体の底に沈んでいる「後ろめたさ意識」が、何よりも心に残って居る。

誰もその行為を裁いて罰を与える者は居ない。けれども自分が自分を裁く。「後ろめたさ」といわれるのは、こうしたものだ。「自責の念」とも言われるように、本来持っていた倫理観に背を向けた自分を知っていて、その自分を許さない感情。この作品では、少年の両親が「後ろめたさ」を背負っている。個人の力では抵抗しきれない戦争によって、この「後ろめたさ」に苛まれる人達の多いことが知らされる。

 今年の815日前後、何夜にも及んで「戦艦大和」「戦艦武蔵」「航空母艦信濃」の最後を報道していた。生き残った人と海底に沈んだ人。生死が分かれた。しかも、轟沈した武蔵の乗組員は、直後に南方の戦場へ陸地戦闘員として派遣され、「信濃」の生存者は呉の沖の島に収容され、沈没の事実は隠された。

生き残った人達の上にあるのは、「戦友を助けられなくて、自分は生き残った負い目」であると語られる。それも、生存者が胸の内を語り始めたのは、それほど以前のことではない。あれから75年たつが、語る人々は今でも涙を流す。「自分が生き残っている負い目」が涙を新しくしている。

作品の中でも、少年の両親は、強制収容所で同じ被収容者でありながら、楽器を演奏することで食料の待遇が良かったり、ガス室送りを免れていることに〈後ろめたさ〉を感じている。その〈後ろめたさ〉は、ナチスの暴力によって命をなくしていく人々に対する「負い目」である。演奏者達は、一般の収容者より好待遇であったことも心痛めることだったろうが、なにより、生き延びるために虐殺者の手先になり、演奏で同胞をだましていた痛みだっただろう。その故に、主人公の父は戦後、演奏に使ったバイオリンを壊して焼き、二度と演奏しなかった。贖罪の思いがあったかもしれない。

生き残ることが負い目であるような心の負担は、戦争以外にも色々な事故に伴って語られる。「負い目」は、「罪」ではない。裁かれて、償うことさえできない。ただ自己照射である。自己に任される故に「負い目」を語る人もあり、語れない人もあり、逆に誇りに思っている人もあるだろう。ナチス政権下にあっては、楽団員にとって、自らの生き延びるための源泉は音楽であったことは間違いない。

マイケル・フォアマンの描くヴェニスの水も街も空も淡い色使いで清らかだ。この作者にであってから30年になる。最初に出会った『砂の馬』の絵も内容も、今もしっかり心に残っている。今回の『モーツアルトはおことわり』も、マイケル・フォアマンの絵だと知って、それだけで心の準備が出来ていた。冷酷な事実の哀しさを冷静なフィルターにかけて濾過し、慰めを含んで浄めてくれるだろうと。そして、そのとおりだった。

美しい空や海のヴェニスを描き、戦争が終わって多くの人に音楽を届けることができるようになった演奏家を描いても、マイケル・フォアマンは、「自責の念」を美化したのではない。

〈音楽を武器にして戦った〉。

ある個人にはそう思われているかもしれないが、音楽は、親ユダヤでもないし、反ユダヤでもない。だから武器にはならないのだ。楽に、人為の迷妄を着せることはできない。美しい海や空を描くマイケル・フォアマンも、空に海に人間の業を問わない。

 

 

 

課題本『モーツァルトはおことわり』 三行感想

◆ 【 YA 】

アウシュヴィッツ…人類最大の負の遺産、そして世界中の人々に人名の重さ、平和の尊さを投げかけている。ホロコーストを幸運にも生き延びた床屋の夫婦の生活も穏やかに見えるが

仲間と競って得たヴァイオリン弾きの仕事。仲間を裏切り、過去を封印しての人生。平穏な心では済ませないアウシュヴィッツ後の人生がある。しかし限界状況の中にも光と希望を見出す必要もあるべきだと。

 

 【 TK 】

ナチス時代についての児童文学でした。悲惨な内容の多い戦争物は心がすさびますが、あたたかい面だけ 

を楽しめました。子供に戦争を教えるにはもってこいの本です。お父さんがハサミをリズミカルに使っている様

子が音楽好きをよく描いている。

 

◆ 【 R子 】

本書はコバルトブルーの明るい未来に向かっていくような挿し絵と、グレーブラウンの暗くてかくしておきたいよ

うな色の挿し絵が対照的に表現されていて、興味深く本を進めていくことが出来た。モーツァルトのやさしい音

色と反対に殺りくの中に押し込められていく状況も対照的だった。戦争の前面に見えるこわさは文章の中で読

みとれたが、読めば読むほど残酷な“戦争”という中でしか体験できない場面が見られ“強制収容所では生き

延びることが全て” “音楽は武器”ということばが印象的だった。

とかく戦争という爆弾が落とされ、人々が焼けただれるシーンを思い出すが、生活の中での“戦争”も語り継ぐことは大切なことと改めて思う。

 

◆ 【 KT 】

強制収容所の物語はいつも胸が痛い。その体験から音楽を聞けなくなった父との約束で、モーツァルトはおこ

とわり。

「おまえのバイオリンのおかげで、また音楽を聞けるようになった。すばらしい贈り物をしてくれたんだよ」「この話をした相手があんたでよかったよ。秘密は嘘と同じだし、あんたはバンジャマンと同じやさしい目をしていた」これらの言葉で、少し気持ちが楽になった。

 

◆ 【 E子 】

強制収容所で演奏をすることで命をながらえたことに対する自責の念にかられる父の思いを受けとり「モーツァルト」を弾かなかったパオロ。パオロの父の思いは現在私達がおかれている世界と似ていると思う。今忘れてはならないことに、パオロの父の戦後の生き方の様にならないことがあるように思う。

 一冊の本が参加者の数だけの方向から考えられること、「つながる」ことに感謝。

 

◆ 【 T 】

収容所に送られて来た人々にモーツァルトを演奏して聞かせて、心ならずも将校たちに協力させられたお父さん。解放され生き残ることができたが、後ろめたい思いが消えず、モーツァルトを演奏することを許せなかった。さし絵がきれいで読みやすい本です。

 

◆ 【 N2 】

読書会に参加していなければ手に取らず、読む機会を逸していました。児童文学作品とは思えないほどいろいろ考えさせられました。モーツァルトをなぜおことわりなのか、第二次大戦、ナチス、ユダヤ人等々。読む入口は児童でも、内容の深い作品です。とてもよかった。 

 

◆ 【 K子 】

モーツァルトにこんな危険があるとは思いませんでした。ベートーベン、バッハ、シューベルト(知っているだけ

書きました)では駄目だったのですかネ?

今の時期にはピッタリの本です。絵本です。ブルーの色が心を洗います。例のガス室の話『アンネの日記』の他にもこのような話があったのですネ。大人のための絵本?奥深い本です。一読を是非に。 

 

                                                  

 

 

 

課題本『モーツァルトはおことわり』 感想

 

◆ 【 C 】 

ユダヤ人というだけで、ヨーロッパのあちこちから強制収容所につれてこられた、若き日のパオロの父と母とバンジャマン。三人ともたまたま音楽家であった故に演奏をすることで生き延びることができた。しかしその仕事は、強制収容所に汽車で連れてこられた囚人達を騙すために、明るいモーツァルトの曲を演奏することだった。逆らえば殺される。自分たちが生き延びるための演奏。<強制収容所では生きのびることこそがすべてなのだ>。戦後、父は二度と音楽を奏 でなくなった。母は沈黙した。誰にも話さず、戦後を生き続けてきたのだった。別れ別れになってしまった、パオロの恩師、バンジャマンと再会するまでは。

 柔らかく、美しい色合いの絵の中に、魂を傷つけられた人々が息づいている。

生きていればこその再会。生きていればこそ、傷つけられた魂は少しずつ回復するチャンスが与えられる。しかし、生きのびることができなかった人々の魂は、どこへ行くのだろう、どこへ行けるのだろうと、読後、ふと思った。

 

 両親と恩師の辛い記憶を、9歳のこどものパオロも背負うことになる。両親の思いを抱えながら、沈黙し、演奏し続けてきたパオロ。そんな中、つらい記憶を呼び覚ます、モーツァルトは演奏しないでくれと懇願した父親が、亡くなる。その約束は、父親にとっては生きていくために必要なもの。しかし息子のパオロにとっては、ある意味、足枷だったはずだ。

二週間後、ロンドンで行われる50歳の誕生日コンサート。パオロは、一体、どんなモーツァルトを奏でるのだろうか。ずっと我慢してきた、音楽。ある意味での解放。空に駆け上がるような、苦しみを浄化するような、素晴らしい演奏を奏でるのだろう。戦後生き残ってしまったという罪悪感を抱えて生きる多くの人々の心を、演奏のひととき、解放するだろう。

 そう思いながら、最後のページ、去って行く記者のレスリーと二階の窓から手を振るパオロ、ベニスの風景の絵を再び見た。するとふと、雲のように描かれている空の中に、ぼんやりと4人の顔が浮かんでいるのに気がついた。さらによく見ると、パオロのマンションの壁にも!あれは一体誰なのだろう。

そう考えたとき、気がついた。パウロが拍手されるのが好きでないのは、レコードやCD に録音しないのは、そこに今生きている観客に向かってだけではなく、両親達の音楽を聴きながらナチスに殺されていった人々への謝罪と鎮魂が込められているからではないかと。

パオロの秘密は、時に演奏の足枷となることもあったかもしれない。もっと自由に演奏したいと願うこともあったかもしれない。その悩みは深く、そして孤独な、寡黙な演奏家に、彼を作り上げたのだろう。しかしその秘密が、彼の演奏を深く、美しく、魂に触れるものにしたのだと思う。背負うことで。

 

 この本でも出てきた。

<強制収容所では生きのびることこそがすべてなのだ>。

ナチスの残酷な行為の本を何冊読んでも、いくつ知っても、その内容に、いつもきゅっと胸が

締め付けられる。どうしてこんなことができたのだろうか、と。でも最近、思う。その非道さは、彼らだけのものなのか。私の中にも、きっとある。深淵に転がる小さな種。ただそれが芽吹く機会がないだけなのではないかと。私たちは繋がっている。

 

 

◆ 【 YA 】

 アウシュヴィッツという言葉の響き、私たちはすぐヒトラー率いるナチスのユダヤ人集団殺戮を思い浮かべる。1930年代後半からヒトラーの人種・民族浄化の純粋主義、ドイツ東部拡大の労働力確保の名のスローガンのもと、「ハイル・ヒトラー」の掛け声で扇動されたナチス集団の数々の非人道的な蛮行。集団真理の怖さを知る。アウシュヴィッツは世界最大の負の遺産をして記憶からは消えない。8月16日NHKの放送「アウシュヴィッツで発見、地中に埋められた文書、命かけた75年目の告発、極秘部隊の真実に迫る」と題してゾンダーコマンドが取りあげられた。ゾンダーコマンドはナチスが強制収容所内の囚人によって組織した労務部隊で主な仕事がガス室等で殺されたユダヤ人の死体焼却処理であった。ナチスは彼らの必要性があり、他の囚人と比べて優遇された。しかし秘密を知る彼らは殺される事を知っており、苦労して手に入れた紙切れ鉛筆等で収容所内で行われている事を詳しく書いて焼却炉のそばに埋めた。それらの文書が1980年にポーランドの学生が偶然に見つけ、解読がすすめられている

内容だった。 『モーツァルトはおことわり』は職種は違うが或る意味ゾンダーコマンドではと思う。死体焼却を手伝わされている間はガス室送りや無差別に殺される事は無い。収容所所属の楽団員も演奏にかり出されている期間はガス室送りは無い。ヨーロッパ各地の収容所でも楽団があり、囚人たちが運び込まれる度に演奏していたという。

ストーリーはこうだ。ベニスで床屋を営む夫婦と小さな息子。夫婦は収容所で楽団員となり奇蹟的に助かり息子をもうけて平穏に暮らしている。夫婦が封印しているヴァイオリンを息子が見つける。偶然ヴァイオリン弾きの老人と息子は親しくなり家のを持ち出して教わる。両親の話をして老人を家に案内する。三人の驚きと喜び。老人も収容所で同じ樂団員だったのだ。

何故父親はヴァイオリンを封印していたのか。私が生きている間はモーツァルトを演奏しないようにと息子に言う。

 新しい囚人が運び込まれる度に、暑い日も雪の日も殺される運命の同胞の前で弾かされる苦しさ。曲が常にモーツァルトだったのだ。生と死の極限のなかで、同じ囚人として弾かされている者にとって、モーツァルトは楽団のリーダーの意向にしても耳を覆いたくなるものだったに違いない。(父親のもっと深い思いはと。)

 楽団員になるには多勢の者から選ばれた。父親は自分が受かったという事は、落ちた者が死の道に向かっている。生と死が表裏一体の極限の中、生き延びることしか選択肢が無かった。父親にとってモーツァルトは自分がふるい落とした同胞を思って胸が抉られる思いだったに違いない。

 10年前にアウシュヴィッツを訪れた時、収容所正門には「労働は自由への道」と看板があり、

送られてきた囚人の中にはこの言葉を信じていた人も沢山いたとガイドさんが言っていた。何と惨いことと思う。メガネ、靴、松葉杖、鍋、髪等々物言わぬ生活の痕跡が山の様に積まれて展示してある。死体焼却炉が幾つも並んでいる。ビルケナウの死の門と呼ばれた鉄道引き込み線が残っている。ここで貨車で送られた夥しい人が物のように即座にガス行きと労働に分別された。広大な土地に300以上の建物がある。人が物のように殺され焼かれ、一体人間の尊厳とはと考える。床屋の夫婦のように、ホロコーストを奇蹟的に生き延びることが出来た人たちのその後の人生はどうだったのだろうかと。

 

 

◆ 【 TK 】

 毎年夏になると戦争に関する事実のテレビ、ドキュメンタリーが特集され、悲惨な写真映像で寝られなくなります。

そんな中で今回の児童文学の作品を読んで、戦争の心の一つの焦点だけを垣間見れました。ナチスの収容所で生き残れたのは楽器バイオリンを弾けたからなのだ。ガス室に送られる人を騙して安心させていたのかどうか?
 バイオリンを弾いていた自分の良心が痛み二度と弾けなくなったトラウマが描かれている。
 児童文学なので読んだ人の年齢によって何処で何処まで感じるかが変わってくる。子供がショックを受けずに少しずつ理解できるのがいいと思います。
 今は自由な世の中になりましたが、この自由を生きるための音楽として文化を育てることに次世代に伝えて活かして行きたいと思います。

 

 

◆ 【 N2 】

世界的に有名なバイオリニストのパオロ・レヴィの秘密とは?

今まで彼が一度もモーツアルトを弾いたことがないのは何故か?

インタヴューアーの私が彼に取材してその秘密を初めて聞くことが出来ました。

それは床屋を営んでいたパオロの両親の来し方を引きずっているものでした。

第二次大戦時、ユダヤ人収容所で二人の弾いていたバイオリンオーケストラの演奏するモーツアルトメロディーはユダヤ人にとって死の行進曲だと分かっても演奏を続けていたこと。

同類である彼らを裏切っていること。他のユダヤ人よりも良い待遇を得ていたこと。

全てが後ろめたかったが生き抜くためにはどうしようもなかったこと。

父は二度とモーツアルトはごめんだと、バイオリンを燃やし二度と手にすることを禁じたのだが、母は大切にしまい込んでいた。彼女にとってバイオリンはゲットーでの恐怖を乗り越えるお守りであり、生活の糧を得る手段であり、青春の思い出でもあったのだろう。

同じオーケストラで弾いていたバンジャマンは同じオーケストラの経験をしながらも橋の上でモーツアルトを弾いていた。何故か?それはどんな状況下でも音楽は音楽として存在するというパオロの父とはまた次元の違うところでモーツアルトを愛していたのであろう。

短い児童文学のこの本の入り口は小さいのですが、内容は広く深く大人が読んでも読み応えのある児童文学だと思います。

パオロが両親の前で初めて弾く曲に四季の冬を選んだのも、曲のイメージから冷たい雪の中を凍えながら歩く人を思い出させますが、また来たるべき春へと繋がっています。

大好きな音楽や芸術が戦争の道具として使われるのは本当に悲しいです。モーツアルトを弾くことも聴くこともできなくなるほどの苦痛は若き音楽家にとってどれほどつらいことだったか、また作品として形に残る画家たちの苦悩は如何ばかりかと熟々と考えさせられます。

 

 

◆ 【 SM 】

課題本は、原題『The Mozart Question』、邦題『モーツァルトはおことわり』。

物語は、新米の新聞記者が上司の代わりに、気難しいバイオリニスト、パオロ・レヴィ氏のインタビューをすることになった場面から始まります。そして、理由も解らないまま、インタビューするときの注意事項として、「モーツァルトの件について質問をしないこと」「プライベートな話題も駄目」と言い渡されました。世界的に有名なバイオリストのパオロ・レヴィの秘密は、かつてナチス強制収容所で繰り返された悲惨な記憶とつながっていました。

登場人物の心情は、邦題『モーツァルトはおことわり』に集約されるように感じています。

レヴィの父親にとっては

ユダヤ人であるという理由で、イタリア・ヴェニスからアウシュヴィッツ強制収容所に強制連行され、演奏させられた「モーツァルト曲」は、音楽を愛する演奏者として想い出したくない、忌まわしい思い出だったのです。父親は戦争に加担する音楽を奏でるために、バイオリンの厳しい練習を重ねたはずはないのです。どんなに理不尽で、屈辱的だったことか。

父親は、アウシュヴィッツで奇蹟的に生き残り、故郷ヴェニスに戻ってバイオリンを壊して燃やし、床屋になりました。妻にも息子にバイオリニストだったことを話すことを禁止しています。せっかく故郷に暮らしているのに、彼はどんなに哀しく、忌々しく、悔しい想いを噛み殺しながら生きていることでしょう。ドイツ帝国への怒りは筆舌に尽くしがたいことでしょう。生と死が表裏一体の極限状態の中で、いつ死の淵に追いやられるかもしれない状況の中で、父親のユダヤ人としての自負も、音楽家としての自尊心も粉々だったに違いありません。

音楽者として、あのモーツァルトを尊敬しないはずはありません。それなのに貨車で世界各地からアウシュヴィッツへ強制連行されたユダヤ人に、モーツァルトを演奏するという大義のもと、食料が与えられ、寝るところが与えられ、ガス室へと向かうユダヤ人を結果として裏切り、音楽家として尊敬するモーツァルトを演奏させられたのです。どれもこれも「殺される死」と隣り合わせで、生き永らえていたのです。どれだけ自責の念に苛まれたことでしょう。何度ガス室へ他のユダヤ人と一緒に入りたいと思ったことでしょう。意志の弱い私がそこに居たら、考えて生き延びることより、死んで楽になることを選択してしまうことでしょう。

戦時下とは言え、自分の生が、あまりに多くの人々の死の犠牲の上に成り立っていると想うと、私は精神的に拠って立つところを失います。父親は、どれだけ多くの眠れない夜を過ごし、明けゆく紫色の空を見たことでしょう。父親が妻にも禁句とし、息子にも語らなかったことは容易に想像できます。父親にとっては本当に「モーツァルトは、絶対、お断り」なのです。

レヴィの母親にとっては

ポーランドからアウシュヴィッツ強制収容所に連行され、モーツァルトを演奏させられたも

のの、レヴィの父親と恋に落ち、戦後彼と結婚しヴェニスで暮したのです。たいそう心細かったことでしょう。彼女はバイオリンを毛布にくるんで、寝室の箪笥の上に隠し持っていました。彼女にとってバイオリンは見知らぬ街で生きていく「生きる支え」であり、生まれてくるかもしれない我が子に「受け継ぎたい想い」だったのではないでしょうか。女性としての「生へのしたたかさ」を感じます。結果、息子へと引き継がれました。彼女はかつての先輩と息子との出会いを歓び、感慨にふけり、夜な夜などれだけ嬉し涙を流したことでしょう。読者として生き延びることの尊さを実感しました。母親にとっても「モーツァルトはお断り」なのです。

≪演奏者にとっては≫

  ナチス将校の脅威の中、演奏する音楽家にとっては、モーツァルトの楽曲を演奏させられてはいるけれども、心の中ではモーツァルトを尊び、愛するモーツァルト音楽のために限りなく美しく演奏していたのではないでしょうか。だからこそ父親は息子に「音楽で戦っていたのだよ。音楽が唯一の武器だった」と伝えたのではないでしょうか。戦時下にあろうと、音楽家としての見えない自尊心を持って、ナチスと精神的に闘っていたのでしょう。父親が「音楽が唯一の武器だった」という言葉が、読者の心に突き刺さります。表紙の五線紙上にもあります。

e fought back with our music, it was the only weapon we had.

ですからオーケストラの演奏者全員にとっても「モーツァルトはお断り」だと言えることではないでしょうか。

 

≪ナチスにとって何故モーツァルト?≫

どうしてモーツァルトを演奏しなければならなかったのか、読書会の後、『モーツァルトとナチス』(エリック・リーヴィー著 高橋宣也:訳 白水社)で調べました。

ナチス・ドイツ帝国が民意を誘導するために、芸術を有効な手段としたことは知られています。

オペラの素材となっている神話・伝説のゲルマン的要素を強調し、アーリア民族の優越性の表現として位置づ

けることで、自らの文化的支柱としたのです。

ナチス・ドイツ帝国は、モーツァルトをも大いに利用していたのです。ナショナリズムとは無縁な印象のモーツア

ルトを、「力に満ちた若きドイツ人の象徴」「ボルシェビキから守るべきドイツ文化の絆」と歌いあげたのです

このことはあまり知られてきませんでした。しかし、モーツァルトはオーストリア出身で、フリーメーソンの会員であり、重要なオペラでユダヤ人台本家と協働していたのです。だから、結果として、中途半端に終わったらしいのです。

ナチス・ドイツ帝国の戦略は、世界各国の政治家リーダーの戦略にそっくりです。日本にも軍拡の波が押し寄せているように感じるのは私だけでしょうか。第二次世界大戦のとき、ガダルカナル島の戦いで奇蹟的に生き残った小尾靖夫少尉が次の言葉を遺しています。

「一旦戦争になったら個人の努力ではどうにもならない。だから平和な時にこそ、個人として最大限の努力をする義務がある」と。

 

画家マイケル・フォアマンの絵は、青を基調とした美しいヴェニスの街が多くのページを占め、前の見返しには美しい朝日に照らされるヴェニスが、後ろの見返しには夕日に暮れるヴェニスが描かれています。私は時を同じくして、NHKBSで『アウシュヴィッツ 死者からの告白』を

視聴しており、その悲惨さをまざまざと思い出すのですが、読者の重く傷ついた心を、フォアマンの絵は和ませてくれます。

さくまゆみこさんが翻訳をしています。原題『The Mozart Question』を、『モーツァルトはおことわり』と訳したのは、翻訳家としての彼女のセンスの素晴らしさだと思います。何故なら物語は、この言葉に集約されるからです。

マイケル・モーパーゴの物語は、実際にあったエピソードを基にしており、とてもシンプルです。だからこそ、語られなかった物語の奥に、戦禍を生きた人々の苦渋と悲哀を感じることができるのです。『世界で一番の贈りもの』『戦火の馬』『ゾウと旅した戦争の冬』『だれにも話さなかった祖父のこと』『トンネルの向こうに』等は、今年の夏本棚に残しておきたい本になりました。